金兵衛のブログ

大分のこと色々綴っていきます

第五夜 安岐城の築城

お鶴の住んでた安岐城とは!

おっす!おらあ金兵衛。第四夜はお鶴のご先祖さま田原貞広が合戦で首取られちまうって衝撃的な内容だったけんど、今夜は、田原家第1代当主田原泰宏からお鶴までの田原氏の系図からまず説明してみようっか。

国東半島史、安岐町史によると田原氏系図は次ぎのようになっかなあ。おらがExcelでちゃちゃちゃっと書いてみたけんどわかっかなぁ

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 田原家第12代当主田原親宏(たわら・ちかひろ)が、お鶴のおやっさんてことになるんだけんど、男の子がいなかったから娘のお鶴に婿養子をもらうんだよな。お鶴の姉ちゃんは、先に秋月城主に嫁にいかせちまってるんで、妹のお鶴の婿養子の親貫ってのが田原家第13代当主になるっちゅうわけだ。

これが宗麟には気にくわなかったんだろうなぁ、大友宗家と田原家の対立はこのことも大きな一因なんだよなぁ。

あと田原家第6代当主田原親貞の弟、田原親昌っちゅうやつが、国東と安岐の間にある武蔵町っちゅうところに分家して、武蔵田原家っちゅうのができるんだ。

この分家の婿養子になる奴が、噂ではとんでもねぇ奴なんだよな。 

話は、第四夜頃に戻っけんど、田原家第3代当主田原直貞は、南北朝の内乱に積極的に参加して多くの恩賞地をもらっているんだよな。

貞治二年(1363)、田原直貞は、室町幕府第2代将軍足利義詮(あしかが・よしあきら)から、それまで日田氏が持っていた安岐郷の地頭職をもらたんだよな。

このように、田原地区(大田村)から国東郷、安岐郷へと田原氏の勢力は急に伸びてくんだよ。

そんなこんなで、国東や安岐郷の土豪たち(萱島、津崎、永松、片山、如法寺など)も田原氏に従うようになるっちゅうことだな。

それから安岐郷に城が築かれたんだが、いつごろのことかっていうと、南北朝時代から室町時代に切り変わったばかりの頃、田原家第7代当主田原親幸によるもんじゃねぇかって言われてるだけんど、地頭としての館はもっと早くに、今の城址近くにできていたんじゃねえかっていう説もある。

安岐城について

安岐城は、田原氏が築いたお城で、国東の飯塚城(いいづかじょう)の支所みてえな出城(でじろ)だったそうだな。1580年頃、田原氏が亡んだ後は次々と城主が代わって、豊臣氏の滅亡と共に廃城になっちまうんだがよ、田原氏が安岐郷にへえった(入った)当初から政治をするための屋敷だけがあったと言われる。

田原家第5代当主田原氏能(たわら・うじよし)の時代には安岐の館(屋敷)ができてたのは間違ぇねえらしいな。

もともと安岐郷ってのは、永ぇ間(ながいあいだ)宇佐宮の神領として治められていたところだもんで、武士がへえってきて治めるようになんちまったんだから、安岐の領民も勝手がちがったんじゃねぇかなぁ。

田原氏も社会情勢の不安定な戦国じでぇ(時代)のことだからよう、地元権力者との調和を図るのにも相当苦労したんじゃねえかって言われてる。

安岐町史」によると田原家第7代当主田原親幸の時に本丸だけが築かれたって書かれてる。本城の飯塚城に田原家第5代当主田原氏能(たばる・うじよし)が居て、安岐郷には、氏能のじっちゃんの第3代当主田原直貞が、隠居のような形で住むようになっていたんじゃねぇのかって言われてる。

応永二年(1395)に、田原氏能の嫡子田原親貞が、上洛せねばならなくなった時、留守番を依頼した手紙に「安岐の大方殿・・・(云々)・・・」って記載がある。

だから当時、安岐の京泊の館には田原親貞の母ちゃんが居たっちゅうことになるみたいなんだよな。

それから10年後の応永十二年(1405)九月に、宗家の大友親著は木付親直に対して、「安岐郷を親貞の子田原鶴松丸(親幸)に返せ・・・」ちゅう手紙を出してる文書が残ってるんで、田原親貞が上洛した後、安岐郷を木付氏に預けていたようだな。

そんで住居のような館から、戦国攻防の砦としての城を築いたんは、この領土返還の後じゃねぇかっちゅうわけだな。

そうすっと、安岐城は、1407年頃の築城となるから、田原家第7代当主田原親幸の全盛時代に当るわけでぇ。

安岐の港の上の天然の要害の地を選んで、築城っちゅうことに推定される。

余談だけんどよ、田原親幸は、こんとき安岐町馬場に大儀寺を建立したと言われてんだよな。

次回、金兵衛の歴史発見は、いよいよ大友宗家との対立について書いていくことになるんだけんどよ、次もぜってい見てくれよな