金兵衛のブログ

大分のこと色々綴っていきます

第七夜 ドン・フランシスコ登場!!

ドン・フランシスコに田原本カリカリすっぞ!の巻

おっす!おらぁ金兵衛。今夜も安岐のこと書いてくんだけんどよう、そんめえに(前に)ドン・フランシスコこと大友宗麟をちゃちゃちゃっと説明せんといけねぇな。

豊後の国(今の大分県)を本拠地とする大友氏は、鎌倉じでぇ(時代)から続く守護大名である。欧州で作られた地図では、九州全体を“Bungo(ぶんご)”と呼んで、“Japan(ジャパン)”とは別の国だと錯覚して作成されている。戦国時代末期、豊臣秀吉に先駆け、ポルトガル船や南蛮船を通じて外国貿易を推し進めて、経済立国を目指す一方で、豊後の他に“豊前”、“筑前”、“筑後”、“肥前”、“肥後”を加えた六か国を切り従え、鎌倉以来綿々と続く大友家にその最盛期をもたらしたのが、大友家第21代当主「大友宗麟(おおとも・そうりん)」であった。

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大友宗麟すげえ!今の宮崎・鹿児島を除いた九州全域を手中に収めていたとはね。戦国時代の九州のドン(首領)って言っても過言ではないな。私の首領(ドン)と呼ばせてくだ~さい~。

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・・・って誰が石野真子やねん(笑)

ちなみに“宗麟”っていうのは法号で、もともと大友義鎮(おおとも・よししげ)っつう名前だったんだよな。そんでもって、フランシスコ・ザビエルら宣教師に大友家領内でのキリスト教の布教を許可し、宣教師のフランシスコ・カブラルから洗礼を受け、洗礼名を“ドン・フランシスコ(普蘭師司怙)”と名乗り、正式にキリスト教徒となっちまったんだよなぁ。

しかもよう、文書に自分の署名として「府蘭」を用いたりもしている。押しも押されぬキリシタン大名なわけよぅ。

宗麟の父ちゃんは、大友家第20代当主大友義鑑(おおとも・よしあき)で、母ちゃんは、大友家と争いごとの多かった周防国(今の山口県)の大名大内家第30代当主大内義興(おおうち・よしおき)の娘なんだよなぁ。

宗麟の正室は、一色義清(いっしき・よしきよ)の娘だったんだけんど、おっちんじまってから、大友氏の家臣奈多鑑基(なだ・あきもと)の娘(奈多夫人)を後妻としてもらってんだよな。

奈多氏ってのは、豊後国安岐郷にあった奈多八幡宮の大宮司家でよう、この大宮司奈多鑑基(なだ・あきもと)っちゅうやつは、宗麟から寺社奉行に任じられてんだよな。

しかし、寺社奉行としての権限を私的に利用し、息子の奈多鎮真(なだ・しげもと)とともに相当な悪(ワル)っちゅうことにされてるんだよなぁ。

もう一人の息子(二男)の奈多親基っちゅうやつも相当の悪(ワル)で、国東田原本家の分家にあたる武蔵田原氏の養子に入って、田原親賢(たわら・ちかかた)を名乗り、それから宗麟の時代になると、大友家の重臣となって宗麟を支えることになるっちゅうわけだ。

田原親賢(たわら・ちかかた)の妹が、奈多夫人で、宗麟の継室(後妻)となるんだけんど、この兄妹は後世での評判が、芳しくねぇわけよ。

こいつらのおかげで本家である国東田原本家は、苦汁をなめる日が続くことになるんだよなぁ。

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画像は、2004年1月2日、NHKで放送された「大友宗麟~心の王国を求めて~」からの引用です。松平健が宗麟役?どんなキャスティングなんだっちゅうの!

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兄の奈多城主田原親賢(村井國夫)と大友宗麟松平健)の前で舞う

奈多夫人(財前直美)とその侍女(宮本真希

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宗麟っちゅうのは、南蛮貿易で富を上げ、国崩しちゅう当時としてもどえりゃあ大砲(大筒)をいち早く取り入れたでいみょう(大名)でよう、地元大分じゃあ英雄あつけぇ(扱い)なんだよな。

なのに歴史の記録じゃあ、女癖が悪りぃとか、酒癖もひでぇとか、けちょんけちょんに書かれてあんだよな。でもよう、この記録っちゅうのが、大友家と対立していた筑前の黒田家の者が書いたってんだか、いいひょうべん(評判)に書くわけねぇよなぁ。歴史の記述っちゃそういうもんだよなぁ。

分家の武蔵田原氏の田原親賢(たわら・ちかかた)つうやつは、出家後のなめぇ(名前)を

田原紹忍(たわら・じょうにん)

ちゅうんだけんど、妹の奈多夫人が宗麟の継室ってこともあって、宗麟に取り入って、田原本家の領土をねだって奪いとったりしたんだよなぁ。

国東の田原本家としちゃあ、自分たちで戦さで戦功をあげ、もらった土地をなんの戦功もねえ分家に持っていかれちまったら、そりゃあ頭にくっぞ!

もともと、国東の田原家は。大友家の庶家の中でも実力があって、天正七年のフランシスコ・カリアン書簡に

田原氏は「豊後の大身中最も有力」「豊後の最も勢力のある大身」だってことが書かれてもあんだ。

※大身とは、身分が高く俸禄(ほうろく)も多い人。

そんため、れきでぇの(歴代の)大友家当主をはじめ、大友義鑑・宗麟(義鎮)も田原親宏(たばる・ちかひろ)の実力には相当警戒してて、田原氏を大友家の年寄から解任して大友家の中枢から排除したり、豊後国外へ追放したりしてんだよなあ。

国東田原氏が天文十二年(1543)に出雲、その後に周防の大内義隆を頼っているのは、宗麟の父大友義鑑(おおとも・よしあき)に豊後を追放されたためなんだよなあ。

でもよ、そん後に大友家ん中で家督争いが起きちまって、宗麟の親父さんの大友義鑑(おおとも・よしあき)は死んじまったんだ。これが有名な二階崩れの変(にかいくずれのへん)っていうやつよぅ。

そんあと、宗麟が家督を継いで、田原氏は2年後に豊後への帰参を許され、安岐郷や国東郷政所職を与えられんだよなぁ。

それから、国東田原氏は大友家の主な合戦に参加して戦功も大きかったもんだから、ますます大友家からは警戒されることになっていくっちゅうわけだよ。主な合戦っつんは、永禄十一年(1568)、高橋鑑種攻めや、永禄十三年(1570)、多々良浜の戦い(毛利軍との決戦)だけんど、宗麟は、田原親宏の所領を奪って、田原分家の庶流の田原親賢に与えちまったんだ。そりゃあ田原氏もカリカリすっぞ!

多分、宗麟の嫁さんの奈多夫人や、その兄田原親賢が、宗麟に強請った(ねだった)んにちげえねえ。

次回、第八夜は、分家の田原親賢(たわら・ちかかた)こと田原紹忍(たわら・じょうにん)、田原本家の田原親宏(たわら・ちかひろ)、その親方の大友宗麟(おおとも・そうりん)の三人についてのからみ話を書いていこうとおもってんだけんど、次もぜってい見てくれよな。