金兵衛のブログ

大分のこと色々綴っていきます

第六夜 大友宗家との対立

宗家大友氏に刃向う田原氏!

 

おっす!おらぁ金兵衛。今夜は田原家と大友宗家とのきまじい(気まずい)話になっけんどよぉ、最後までぜってぇ読んでくれよな。

 

南北朝の争乱こそ終息したんだけんど、日本各地でいろんな乱が勃発しちまってんだ。たとえば、

応永の乱(1399年)

永享の乱(1438年)

嘉吉の乱(1441年)

享徳の乱(1454年)

そんで、有名な応仁の乱(1467年)が京都を中心に勃発しちまったんだ。

世の中は下剋上が横行する戦国じでえ(時代)に突入!

そんなじでえ(時代)に、豊後の大友家では家督をめぐる内訌(ないてい)いわゆるうちわもめってやつが続いてて、明応年間(1492~1501)には、大友家第16代当主大友政親(おおとも・まさちか)とその子、大友義右(おおとも・よしすけ)が対立し、抗争してたんだ。

この父子の対立の裏には、大友一族の僧侶・大聖院宗心(だいしょういん・そうしん)の陰謀と、宗心を支援し大友氏の凋落を目論む周防の大内氏の存在があったと言われてるんだよな。

宗心(そうしん)には大友家の当主になるちゅう強ええ野心があったんだ。

宗心自身は大友家第13代当主大友親綱(おおとも・ちかつな)の六男で、第16代当主大友政親(おおとも・まさちか)とは従兄弟の関係にあたるんだよな。

でもよう、宗心は、父親である大友親綱の菩提寺大聖寺豊後大野市犬飼町)に入り、大聖院宗心(だいしょういん・そうしん)という僧侶になりながらも大友宗家当主になることを望んで、さまざまな謀略尽くすんだよな。 

一方、国東の田原家第9代当主田原親宗(たばる・ちかむね)は、大友宗家のうちわもめに際して、最初は、父親の大友政親に心を寄せていたようだったんだけんど大内氏と宗心からの働きかけによって政親に反するようになったんだな。

だからよう田原親宗は、宗家大友氏の成敗を受けることになっちまって、国東に引き籠もっちめうんだ。

明応三年(1494)になって、田原親宗は手兵を率いて府内大友館の大友家第17代当主大友義右(おおとも・よしすけ)を襲撃するだけんども撃退されちまうんだ。その後、第16代当主大友政親のご機嫌伺いに行くんだけんど、田原親宗を警戒していた大友政親はこれを拒否するばかりか、配下の木付親久と富来繁教に追討命令をだし、田原親宗が国東に戻る途中の御野崎っちゅうとこで田原軍を全滅させちめうんだ。

その後も大友宗家の家督争いは、16代大友政親と17代大友義右の父子対立続くんだけんど、とうとうてぇへんな事件が起こっちまうんだ。

それは、明応五年(1496)に、父の大友政親が、子の大友義右を毒殺しちまうんだ。

f:id:kinbee:20180401173427j:plain

そんでもって、自分は筑前に逃亡しようとすんだけんど、赤間関大内氏に捕えられ自害させられちめうんだな。

長らく続いた大友宗家の家督争いは、あっけねえ終結をみせることになっちまったんだけんど、子の義右の毒殺も、父の政親の謀殺も、実はいずれも宗心(そうしん)が拘わっていたらしいんだよな。

その後、第18代大友家の当主を継いだんは、自害した政親の弟の大友親治(おおとも・ちかはる)なんだよな。大友氏の略系図を書いたんだ見ながら読んでくれ!

f:id:kinbee:20180401184125j:plain

宗心も、なっかなか当主には、なれねぇなぁ…。まっ一応坊主だからな。

それから大友家第18代当主になった大友親治は、大聖院宗心の暗躍を抑え、次の家督を、自分の嫡男大友義長にしようと、都で一度将軍職を追われた前将軍足利義稙(あしかが・よしたね)に使者を派遣したりすんだよなぁ。

だけんど、足利義稙を擁する大内義興(おおうち・よしおき)は、大友義長が大友家のの家督を継ぐことに猛然と反対し、大聖院宗心を大友の家督後継者に推したんだよな。

さらに、大内義興足利義稙を奉じて上洛し、将軍に返り咲かせることに成功するんだよな。

いよいよ大聖院宗心が大友家の家督を手中に収めるかって思われたんだけんど、将軍足利義稙は、大友親治・義長父子に大内義興との和睦を勧めたんだ。

だけんど、大友父子はこれに応じなかったんで、の豊前攻略が開始されるっちゅうわけだな。

あとよぅ大聖院宗心は、大内氏以外にも、色々他国の武将に通じ、大友宗家と対立を続けんだよな。一方、田原親宗の後、家督を継いだ田原家第10代田原親述(たわら・ちかのぶ)は、正室の実家佐伯氏、義理のきょうでえ(兄弟)にあたる朽網親満(くたみ・ちかみつ)らと結んで、大聖院宗心を支持したんで大友氏と対立することになんだな。

永正十三年(1516)、宗心を盟主として朽網親満の乱を起こるんだけんど、実はこれも田原親述が企てたんだってよ。そんな訳で国東田原氏は、常に大友氏をおびやかす存在であり続けたってわけよ。

でもよ、結局大聖院宗心も年取っちまって老境に入り、家督への執念も消えちまってよう、その消息も途絶えちまったんだな。

一方、国東の田原親述は、永正十五年(1518)の大友義長の「条々事書」に、「田原親述兄弟三人之事、子々孫々及も許容有間敷候」と記載されてんだよな。つまり、大友義長にとって、田原親述は生かしてはおけないと思うほど恨み・怒り・憎しみが深かったってことだな。不俱載天の存在だな。

そんなわけで、大友宗家と国東田原家は対立は根がふけぇんだ。次回はいよいよ大友親安(義鑑)・大友義鎮(宗麟)父子と田原家との対立について書いてみんからよ、次回もぜってえ見てくれよな!