金兵衛のブログ

大分のこと色々綴っていきます

第八夜 西の関ケ原・・・耳川の戦い

 

西の関ケ原・・・耳川の合戦!

 

おっす!おらぁ金兵衛。今夜は、大友氏衰退の契機となった耳川の合戦について書いてくぞ、最後まで、ぜってい見てくれよな。

 

妹が大友宗麟正室になったことで、大友軍の中で、相当な影響力を持つようになった奈多鑑基の子、田原親賢(たわら・ちかかた)こと田原紹忍(たわら・じょうにん)は、親方大友宗麟田原本家の国東、安岐の二郷をおねだりし二郷とも手に入れることに成功した。

天正5年(1577)島津氏に敗北した日向(今の宮崎県)の大名伊藤義祐(いとう・よしすけ)は、友好関係にあった大友宗麟に身を寄せてきた。

大友家の家督を相続してからほとんど敗北らしい敗北を喫したことがなかった大友宗麟は、調子にのって、宿敵・薩摩国(今の鹿児島県)の島津義久(しまず・よしひさ)と決着をつけるため5万の大軍を率いて日向遠征を決定しちまったんだ。そんときの総大将を田原紹忍に任しちまうんだよなぁ。

 

天正6年(1578)9月4日、大友宗麟臼杵を出発。日向に切支丹国(ムジカ)を築こうと、延岡の牟志賀(今の宮崎県延岡市無鹿町)に本陣を置いた。

 

ムジカっちゅうのは、ミュージックのことだとおもうけんど、以前、大友宗麟がミサに訪れた教会で、オルガン音楽「ムジカ」(MUSICA)に触れ、感動しちまってよう、理想の切支丹国ムジカを自分はつくりてえってずうっと思ってたらしいんだ。

 

敵方の島津氏は、島津四兄弟っちゅう強えやつらがいてよう、大友軍は大苦戦しちまうんだよなぁ。(島津義久・義弘・歳久・家久)

11月はじめ大友氏の先鋒が、名貫川に布陣していた島津家久(しまづ・いえひさ)勢を破ると、大友勢はさらに進んで島津氏の家臣、山田有信(あまだ・ありのぶ)の守る高城(今の宮崎県児湯郡木城町)を包囲し、兵糧攻めを開始しちまった。

それから、豊後・島津両軍は日向高城川原(今の小丸川)で激突!!島津家久勢の救援を図って佐土原に進撃した島津義久の主力軍2万が背後から総攻撃をしかけてきちまった。

この攻撃で大友勢は壊滅状態となり敗退。大友方は数日来の大雨で増水した耳川(日向市)を渡りきれずに多数の将兵が水死しちまったんだ。

また、敗走する途中にも島津軍の追撃に合い、小丸川から耳川河原までの七里(約28Km)の児湯平原一帯は両軍の戦死者総数が二万にも達したと伝えられるなど、両軍の屍(しかばね)が累々としていたっちゅうことだ。

この11月9日から12日までの四日間を「耳川の戦い(みみがわのたたけえ)」っちゅうんだ。「高城川の戦い」ともいわれてる。

 

11月12日の夜、大友宗麟は本陣を置いてた牟志賀を引き払い豊後へ陸路を敗走、11月14日、懸土持氏が島津氏に被官し、縣は島津領になっちまう。

耳川の戦いの主な武将は

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でいしょうり(大勝利)した島津氏、しつこく大友氏の本拠地豊後へ侵攻し、一時は現在の大分市まで迫り、九州探題を任じられてた大友宗麟の威勢は急速に落ち込んじまった。代わって島津氏はやがて九州の覇権を握ることになるんだけんど、大友宗麟は恥をしのんで豊臣秀吉に助け求めに大阪城へ行った、これが秀吉の九州出兵の原因になるんだよなぁ。

次回、大敗した大友軍で離反が相次いで発生、詳しく書くから次もぜってい見てくれよな!