金兵衛のブログ

大分のこと色々綴っていきます

第九夜 大友家臣団の軍法会議

大友家敗戦の原因は!キリシタン?田北鎮周?

おっす!おらあ金兵衛。耳川の戦いじゃあ、薩摩の島津にやられちまった大友軍だったけんど、敗戦の原因について、大友家臣が激論すっぞ!最後までぜってい読んでくれよな。

大友宗麟の日向遠征の失敗は、なんだったのか!当然失敗の責任を問う声は、田原紹忍(たわら・じょうにん)に集中したんだよな。このことを詳しく書いてるのが、大分合同新聞の渡辺克己って人でよう。ちと内容を引用すっから大目にみてくれよな。

ずるがしけえ(ズル賢い)田原紹忍は、その非難をかわすために、国主大友宗麟をまどわしたのは、キリシタンである!宣教師を国外追放にし、教会は打ち壊すべきではないか!と画策してたんだよな。つまり、田原紹忍は、この策動に反キリシタンである大友家の重臣たちを引き入れるつもりだったんだけんど、これがかえって家臣団の反発にあい、裏目にでちまったんだ。

田原紹忍に反論したのは、国東の名門田原本家の主である田原親宏(たわら・ちかひろ)だった。お鶴の父ちゃんだな。

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イメージ画、信長の野望より

田原親宏「紹忍殿は、こたびの負け戦の責任を、キリシタンバテレンにことごとく負わせて追放を企てておると聞いたが、真でござるか。それは、ちと身勝手すぎると思われてならぬが・・・」

と皮肉を込めて釘をさした。何しろ田原紹忍は、田原親宏にとって不快きわまる人物だったのだ。そもそも田原紹忍は、田原家分家の武蔵田原家に奈多氏から養子に入った身である。その紹忍が、実の妹奈多夫人を宗麟の正室に据え、宗麟の寵臣となって権威を振るい、田原本家の所領であった国東郷と安岐郷を数年前に、宗麟にせびり奪い取っているからだ。

田原紹忍「いや、あの戦は、われとて責任は重々感じておるのだが、そもそも小丸川渡河戦において、田北鎮周(たきた・しげかね)殿の無謀なる・・・。」

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・・・と、戦死した田北鎮周の名を出して言い訳をしかけた。それを横合いから奪い取って口を挟んだのは、鑑解由入道こと田北紹鉄(たきた・しょうてつ)であった。

田北紹鉄「お待ちあれ!討ち死にした者のとらざるところと、われわれは心得ておりますぞ。まず総大将たる者が、腹かき切ってでも負け戦の責めを一身に担うてこそ、武士の器量というものではござらぬか!われらはそれを期待し、そのときこそ、われらも責任を分かち合う覚悟でござった。」

バテレンたちには、負け戦の責任はござらぬ。ましてや討ち死にした者を持ち出すのは卑怯・・・」

鋭い語気であった。

日向小丸川の渡河戦で、軍議の席を蹴り、渡河一番乗りで戦死した田北鎮周(たきた・しげかね)は、田北紹鉄の実弟であり、紹鉄に子が無かったので、鎮周を養嗣子にして田北の家督を継がせていたのである。

覚悟はしていたものの、望みを託していた肉親の戦死の悲しみは深い。その田北紹鉄の面前で、ぬけぬけと敗戦の責任を戦死した者に転嫁しようとする田原紹忍の、きたない根性は腹にすえかねたのだった。

田北紹鉄は、元来(がんらい)一徹者で通っており、歯に衣着せぬ舌鋒に、田原紹忍は黙り込んでしまった。田原紹忍が企んでいた、教会堂の打ち壊しやバテレンたちの追放は、これで立ち消えとなっちまった。

だけんど、腹ぐれえ田原紹忍の心底を突き刺した、田原親宏と田北紹鉄の言葉は不吉な予感を宿した暗い影となって並みいる大友家武将たちの胸をよぎったんだよな。

その予感は、間もなく衝撃的な事件となって、大友家の上下を驚かせた。

日向遠征の敗北によって、大友の旗下に屈して従軍していた北九州領国は動揺し、この機に大友から離反しかねねえ不安な情報は、矢継ぎ早にへえっていた(入っていた)んだ。

その対策や国内の戦後処理などを協議するために、臼杵城に重臣を招集して、大友宗麟の子、大友義統を中心に、連日会議を開いていた。

次回、田原のおやっさん、会議をすっぽかして国東へ帰る!の巻。次もぜってい見てくれよな