金兵衛のブログ

大分のこと色々綴っていきます

第四夜 国東の田原氏のはじまり

それは大田村から始まった!

おっす!おらあ金兵衛。今夜もふるさと安岐町の歴史について探求してみっど。今夜は国東田原家が宗家大友氏となぜ戦(いくさ)に至ってしまったのか、その理由について書いてくから、ワクワクして読んでくれよ。

お鶴が殺されたこのじでぇ(時代)の宗家大友氏ってのは、有名な大友宗麟(おおとも・そうりん)のことだけんどよぅ、田原氏が宗家大友氏と戦に至ったそもそもの原因は、それよりずーっとずーっとむけし(昔)の頃から見ていかねぇとわからねぇんだ。

国東の田原氏ってのはよぅ、志賀・詫摩氏と並ぶ大友三大支族(いわゆる大友三家)の一つでよぅ、豊後大友氏初代能直(よしなお)公の庶子(しょし、本妻以外の女性から生まれた子)泰広(やすひろ)様を始祖とする、いわゆる大友庶家(しょけ、宗家ないし本家より別れた一族)になるんだっての。

それがある人物の影響で、宗家筋の大友家ときしみが生じちまうことになるんだがよぅ、その前に田原氏の始祖である大友泰広(やすひろ)様について、話をはじめようか。

大友泰広(やすひろ)様は、京都で生まれ、豊後国国東地方に地頭職を得て、宇佐宮領国東郡田原郷(田原別府とも荘とも呼ばれる)に定住し、田原(たわら)氏を称することになるんでぇ。いつぐれぇのことかって言うと、色々説はあるんだけんど、親子で学ぶ安岐の浦史によると、建保元年(1213)に豊後国国東地方(大田村)の地頭となってからってあるし、その土着を十三世紀末にっていう説もある。

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田原氏は、その後、沓掛田原・武蔵田原氏の分家や吉弘・妙法寺・生石・田口氏などの庶流も生じてるんでぇ。それ以後、第2代当主田原基直、第3代当主田原直貞と綿々と続いていくんでぇ。

三代目の直貞とその子貞広父子は、はじめのころ後醍醐天皇につくしたりもしてたんだけんど、建武二年(1331)に、足利尊氏が新政に叛旗を翻すと、尊氏に味方して活躍したんだってよ。

そういうわけで田原氏は室町幕府や大友氏からの信任もあつく、九州・中国各地でその支配地をかくでぃ(拡大)していったんだよな。

南北朝時代になってからよぅ、田原氏は大友本家に従って北朝方に味方して、多くの合戦に参加し、その功績のため、観応二年(1351)、田原家第4代当主田原貞広は当時の将軍足利尊氏から国東郷地頭職を与えられ、国東郷飯塚城(現在の国東町安国寺、国東小学校があった辺り)に移住し、国東田原氏発展の基礎を築いたんだよな。

文和二年(1353)、九州探題一色氏が中心となった武家方と征西宮を擁する菊池方との決戦が筑前針摺原(ちくぜんはりすりばる、現在の筑紫野市辺り)で行われ、この戦に田原貞広も宗家大友氏時らとともに出陣し、先鋒となった大友勢の一翼をになったんだってよ。

だけんど、乱戦のなかで征西府軍の安富泰重(やすとみ・やすしげ)っちゅう強ぇやつに討ち取られてしまうんだ。

筑前針摺原合戦実況中継】

さあ文和二年(1353)正月、ここ筑紫野市にある筑前針摺原(はりすりばる)スタジアムでは、北朝側の博多の一色直氏率いる一色探題軍総勢二万五千。相手南朝側は本陣に、懐良親王、五条親子を中心とする公家たちが凛々しく鎧兜に身を埋めており、菊池武光、城武顕、赤星武貫、大城藤次らを中心に続々と集結し、いつしか総勢一万に達しております。数では圧倒的に北朝側有利、さあ、合戦2日目の朝がやってまいりました。

 

一色範氏「先陣は、大友氏時(おおとも・うじとき)に任せた。頼んだぞ、氏時」

 

大友氏時「お任せください。必ずや菊池武光の首を取り、征西将軍宮を虜にして見せます」

 

胸を張って答える大友氏時。彼は先年、兄大友氏泰から家督を譲られたばかりであります。

しかし、大友家は未だ隠居したはずの兄大友氏泰に握られている状況であるとの情報が入っております。

大友氏時は、ここでなんとか、自らの能力を示し、大友宗家での威信を高めたいと密かに胸の中に期しているものと思われます。

 

一方の征西府軍(せいせいふぐん)は、菊池一族の赤星武貫(あかほし・たけつら)を先鋒に任じたようであります。

南朝側は、この戦で必勝の作戦を練っているとの事前情報が入っております。

おや?菊池武光が、一族の将兵を前に訓示を開始しております。それでは集音マイクでその声を拾ってみましょう。

 

菊池武光「よいか皆共、この針摺原は、広い草原地帯だ。“鳥雲の陣”の展開には最も理想的な地形である。日頃の辛い訓練の成果を見せるには持って来いだ。いいな、勝負は菊池勢だけで付けるつもりで掛かれ。一気に一色親子の本陣を衝くのじゃっ」

 

「おおっ!」

 

とても勇ましい訓示であります。

征西府軍の配置を見てみますと、菊池勢が中心となり、懐良親王たちの本陣は遥か後方に置かれているようです。さらに、外様豪族たち軍勢も控えに回されている陣形をとっております。南朝側としては、総数は北朝側に劣っているものの、懐良親王を危険にさらすわけにはいかないということでしょう。

それにしても菊池武光の話していた“鳥雲の陣”とはどのような作戦なのでしょうか。

とても気になります。

南朝側は今日の合戦前に食事をしてるようです。今朝のメニューは、

干し飯(いい)

勝ち栗

打ち鮑(あわび)等

の料理のようです。

菊池の将兵はこれらで合戦前の食事を済ませております。その目は、ぎらぎらして合戦二日目の日の出を待っております。

 

そして今、朝の陽光が草原を照らし始めました。

おおっと、それと同時に、菊池武光の号令が下ったようです。

 

「いまだ、者共かかれいっ

「うおおおっ」

 

怒号とともに安富泰重(やすとみ・やすしげ)を先陣とする赤星隊が大友勢に襲い掛かりました。

 

「ござんなれい」

 

大友勢も、この瞬間を手ぐすね引いて待っていたようです。その先鋒は国東武田原貞広(たわら・さだひろ)のようです。

田原貞広は、大友家中でも屈指の勇者であると聞いております。

 

田原貞広「なんだあれはっ」

 

田原貞広は、迫りくる菊池勢の隊形に目を見張っております。

それもそのはず、菊池勢の隊形が刻一刻と形を変えております。

これでは、田原貞広側としては、相手の手の内がまったく見えないのではないでしょうか。

鶴翼なのか?、それとも魚鱗なのか?それとも・・・。

 

あっとここでファーストコンタクト!!

両軍がぶつかりあいました。

この形はなんでありましょうか!奇跡です。奇跡です。

菊池勢の兵士一人一人が、ぴたりと心を合わせて行軍することから生まれる奇跡です。

 

ここまで兵士を鍛えるのには、並々ならぬ努力と歳月が必要だったことでしょう。

菊池武光は、探題側が言っていたような腰抜けではありません。鬼です。鬼将です

 

どうやら北朝側の先鋒田原貞広はこの戦法を理解したようです。

だが、それに気づいた時、田原貞広の人生は既に終末を迎えていました。

 

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大友勢先陣は粉砕され、たちまちのうち瓦解してしまいました。

おおっと、ここで先陣の赤星隊の安富泰重(やすとみ・やすしげ)が雄たけびを上げたようです。

 

安富泰重「我こそは肥前の武士・安富泰重っ、大友一族の勇将・田原貞広を討ち取ったりっ」

 

安富泰重が振り上げた槍の穂先に、刺し抜かれた首級が翻っております。

 

大友氏時も懸命に兵に叱咤しておりますが、大友勢は壊乱したままで陣形は立て直せそうもありません。そればかりか、大友勢の敗残兵たちが、第二陣の島津、第三陣の竜造寺勢になだれ込み、彼らをも混乱させているようです。

 

「今だ、行けっ」

 

菊池勢の第二陣を率いる八郎武豊、第三陣を率いる城武顕が次々に突入して行くので、たちまちのうちに一色の大軍は統制を失った烏合の衆と化しております。

後方の小高い丘に置かれた本陣で、一色範氏は唖然とした表情です。

 

「なんだこれはっ」

「なんだこれはっ、どうしたと言うのだ。戦が始まってまだ四半刻(三十分)にもならぬのに」

 

その傍らで、一色直氏も蒼白な頬を震わせているようです。

 

「な、なんて強さだっ」

 

ここで前衛から傷だらけの郎党が一色直氏のもとへ駆け込んで来たようです。

 

「お屋形さまっ、ここも危険です。早くお逃げください」

 

ここに至って、一色親子は事態の深刻さを思い知ったようであります。

 

「いかん、退却だ。数里後退して態勢を立て直すしかない」

 

北へと敗走していく一色の大軍を望見し、菊池武光は合図の采配を振るっております。

 

「総攻撃っ」

 

南朝側は本陣を守る馬廻衆を始め、待機していた阿蘇惟澄統率の外様部隊や懐良親王も一斉に動き出した模様です。

菊池武光自ら白馬に跨り、馬廻衆の先頭に立って追撃しております。

その激しさは、同陣の少弐冬資をも震え上がらせるほどに凄まじものがあります。

菊池武光の容赦の無い追撃に、逃げ遅れた一色方の豪族は、殆ど降参するか壊滅させられてしまったようです。

後退して体制を立て直すつもりだった一色範氏は、あまりの惨敗に開いた口が塞がらないようです。

大友氏時も再起不能となり、龍造寺や深堀も兵力の半数を失って征西府に屈服しております。

肝心要(かなめ)の一色勢も、菊池勢の追撃に大打撃を受け、その恐ろしさに完全に戦意を喪失しております。

 

「これが、これが、あの大軍の成れの果てなのか・・・」

 

猛追撃を逃れて肥前の小城(おぎ)に落ち着いた一色範氏と直氏の親子は、互いの蒼白な顔を眺めては吐息に暮れております。

 

それから後、父田原貞広が敗死したため、祖父田原直貞から所領を譲られた孫の田原氏能(たばる・うじよし)は、孤立無縁となったんだがよぅ、上洛して幕府に有力大将の九州下向を請うたんだってよ。

幕府は18歳の渋川義行を九州探題(きゅうしゅうたんだい)に就任させたんだがよぅ、南朝方の征西府(せいせいふ)の頑強なてえこう(抵抗)に遭って、九州に一歩もへぇいる(入る)ことができねぇまま探題職を更迭されちまったんだ。

以後、九州探題は空席のままで、田原氏能がでぇり(代理)をつとめながら征西府とてぇじ(対峙)を続けることになるんでぇ。

 

 九州探題とは、室町幕府の軍事的出先機関である。当初は鎮西管領(ちんぜいかんれい)とも称された。

 ウィキペディアより引用

 

 征西府(せいせいふ)とは、南北朝時代、征西将軍懐良親王が九州を転戦した時に、そのつど各地に設けた在所。

 大辞林より引用

 

次回、第五夜も国東の田原氏のつづきをやっからよぅ、ワクワクしながら待っててくれよな、次もぜってぇ見てくれよな!