金兵衛のブログ

大分のこと色々綴っていきます

第十夜 大友家臣の離反・反乱

 

田原親宏、国東へけえる(帰る)

おっす!おらあ金兵衛。第九夜では、田原本家の田原親宏、勘解由入道こと田北紹鉄が田原分家の田原紹忍を糾弾したとこで終わったんだったな。今夜は、その続きだけんど、最後までぜってい読んでくれよな。

 

12月中旬のことである。その日の会議に田原親宏(たわら・ちかひろ)の顔が見えなかった。田原親宏は、大友氏庶流の中でも重きをなしている名門である。ことに、北九州への備えとしても重要な国東の城主だ。

どうしたのだろう、と他の重臣がささやきあっているところへ、注進が入った。

「田原親宏殿が、郎党ことごとく引き連れて、国東へ引き揚げられた模様にござります」

「なに、親宏が国東へ帰ったと…」

f:id:kinbee:20180415090311j:plain

画像:信長の野望より転用

真っ先に顔色を変えたのは、大友宗麟の嫡男大友義統(おおとも・よしむね)であった。これは重大な出来事である。家臣が主君の許しを得ずに、黙って自分の城へ引き揚げるのは、明らかに反逆の意思表示である。

このことは、直ちに大友宗麟へ報告された。

田原親宏謀反か!円満解決へ重臣動く

田原親宏(たわら・ちかひろ)が無断で国東に帰城し、謀反の気配があることを知らされた大友宗麟は、「うむ…」とうなずいて、しばらく考えていたが「ことと次第によっては、糾明の兵を動かさねばなるまいが、田原親宏に何か言いたいことがあるかもしれん。しばらく待ってみよう」

親宏が突如このような行動に出た根が、どこにあるか宗麟の脳裏をよぎるものがあった。それは数年前、宗麟の正妻の兄であり、寵臣でもある田原紹忍(たばる・じょうにん)の望みを入れて、田原親宏の所領の一部を取り上げて田原紹忍に与えたことである。

さらに今回の日向敗戦の責任を負うべき田原分家の田原紹忍を不問に付して側近に復している。これらの不満が、一度に噴出したのだ。

今や実力のある国東田原家と、ことを構える大友家の現状ではない。言い分があれば聞き入れて、穏便に収めたい、と考えたのだ。

f:id:kinbee:20180415091325j:plain

画像:信長の野望より転用

家臣たちも宗麟と同じ思いであった。もしも親宏が反大友の勢力である北九州の秋月、竜造寺らと組んで府内を襲えば、防ぐことは不可能ではないか。敗戦の痛手と不満を抱えている将兵が府内の防衛に積極的に当たるとは思えない。

そこで「この事態の打開に何らかの手を打たねばなるまい。事を荒だててはならぬ」と、重臣たちがなだめ役をかって出た。それは加判衆の志賀親守(しが・ちかもり)、一萬田鑑実(いちまんだ・あきざね)、朽網鑑康(くたみ・あきやす)ことと朽網宗歴、木付(きつき・しげひで)の四人である。

 

 

f:id:kinbee:20180415093610j:plain

志賀親守(志賀道輝)・・・豊後岡城城主

一萬田鑑実(法名:宗慶)・・・小牟礼城城主・鳥屋山城城主

 

f:id:kinbee:20180415094908j:plain

朽網鑑康(法名:宗暦)・・・山野城(別名:逆竹城)城主

木付鎮秀(木付宗虎)・・・木付城城主

【加判衆】

大友氏領国支配の中枢的役割を持つ家臣団の中の、上層部に位置する役職である。ことに志賀、一万田、朽網三氏は南部衆の有力者である。南部衆はこの度の日向遠征には最も批判的で、出兵には肥後迂回陣で結局戦闘には参加しないで帰還している。

 

国東木付城(後の杵築城)城主である木付鎮秀は、耳川の合戦では本隊に加わって戦い、敗戦に際しては、殿をつとめて、残兵を収集して帰国し、連署で田原親宏に書状を送ったのである。

 

暮れも迫った12月26日である。加判衆としては、田原親宏がこの度の行動を反逆と認めたくない、穏便な次のような内容であった。

木付鎮秀 ⇒ 田原親宏

「この度の突然のご帰国について、だれにもあいさつすることなく、理由も告げなかったことは、訳がおありであろうが、我々は驚きました。遺憾なことでもありました。ついては、しばらくご休息になり、来年春早々にはぜひご出府あるよう、お待ちします。なお筑前方面の動きが容易ならぬと見受けられますので、ご油断なきよう頼みます」

田原親宏のおやっさんの気持ちを十分に察した上で、核心にはわざと触れず、円満な解決を望んだ加判衆の気持ちを、親宏もくみ取ったようで、これに対する返事ともとれる書状が、年が明けた早々に大友義統あてに届いたってんだ。

田原親宏 ⇒ 大友宗麟

「不穏な筑前方面の軍勢が、南下の動きがあると聞きましたので、これに備えるべく、豊前方面の守りに我らが兵を動員しました。事態が急と心得ましたので、言上する暇もなく帰国致した次第です。つきましては、わが領内の総力を挙げるについて、先に分家田原紹忍殿に与えられたわが旧領国東、安岐二郷が、他領であることは不便にて、種々差し換支えがございます。この際、旧のごとく回復いただきたく願い上げる次第です」

っとまあこういう内容の書状だったんだな。つまり、田原紹忍が宗麟にねだって奪い取った国東・安岐郷をけえして(返して)くれってなことだな。筑前の不穏の種である旧領回復の要求を、はっきりと宗麟に示しちまったんだなぁ。

田原親宏の今回の不審な行動の本心は、筑前の秋月種実と組んで府内を攻め、豊後に新しい風を吹かせたかったようだな。

秋月種実(あきづき・たねざね)の正室には田原親宏の長女(お鶴の姉ちゃん)が嫁しているし、田原家・秋月家両家は姻戚関係にあるだからな。

しかし加判衆の連名で、友情のこもった、円満な解決を望む書状を届けられては、これを踏みつけにして府内に刃を向けるわけにはいかず、田原親宏のおやっさんは、要求だけを大友宗麟に示したんだよな。

田原親宏の書状を読んで、嫡男大友義統が激怒!

f:id:kinbee:20180415103044j:plain

 田原親宏の、旧領回復の要求をはっきりと示した書状を見た若い大友義統には、事態の深さも田原親宏の心のひだも読めなかったんだな。

 大友義統「旧領を返せとは、上を侮るも甚だしい。国東の領地を動かしたのは、父のお考えがあってなされたこと。今さら何を…」

 と手紙を放り出して憤まんをぶちまけるだけで、加判衆の意見も聞こうとしなかったんだな。

 事態が好転に向かっているのに、これでは再び荒立てることになる、と考えた加判衆は、直接大友宗麟に訴えたんだな。

 加判衆「田原親宏(たわら・ちかひろ)は、これまでも豊前方面の平定に再三出陣して功績を現しております。この度の行動は不穏に見えましたが、書信によると、筑前に備えて豊前に兵力を派遣し、忠誠を見せたのでありました。彼の旧領回復の望みをかなえて、国内安泰を図るべきではないかと愚考致します。田原紹忍(たわら・じょうにん)に与えていた領地を、この際取り上げて旧に復するのは、日向の戦いの責任を明らかにする点でも、家中は納得すると思います」

と、言葉を尽くして進言したっちゅうわけでい。

大友宗麟も、田原親宏問題に心を痛めていたところであり、むしろ加判衆らの進言を待っていたようで、意見に従って直ちに嫡男義統を呼んで、田原紹忍に与えていた国東、安岐二郷を田原親宏に戻すよう処置することを命じたちゅうんだ。

かくて天正七年正月十一日付けの、加判衆連名の奉書で、田原親宏に旧領返還の伝達が、急使をもってなされたちゅうわけでえ。

これで田原紹忍(たわら・じょうにん)は、国東・安岐郷の領地を失い、宇佐郡妙見岳城に蟄居しちまったんだ。田原紹忍に向けられていた日向敗戦の責任追及もこれで一段落し、田原親宏事件も穏便に終息しちまった。

田原親宏にとっては望みどおりに解決して、不満のタネはなくなったわけだけんど、一つ重い課題を抱えこまされた。

次回、田原親宏にもたらされた重い課題とは!次もぜってい見てくれよな!