金兵衛のブログ

大分のこと色々綴っていきます

GW特別企画 お墓探索

お松(仮)の編

おっす!おらあ金兵衛。

前夜の予告では「若き武将、田原親貫の反乱!」っちゅうのをやるっていったけんど、せっかくのごーるでんうぇーくなんで、ここは田原氏一族の墓めいり(参り)でもすっかっちゅうわけで、急きょ内容を変更するこつにした。

田原家第12代当主田原親宏(たわら・ちかひろ)には二人の娘がいたっちゅうことは前にも書いたけんど、長女の方はなめえ(名前)が記録に残ってねえ。

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長女は、今の宮崎県串間市にある西林院っつうところに埋葬されてるっちゅうんで、福岡市から車で出かけることにしたんだよな。

なめえがねえとかきづれえ(名前がないと書きづらい)んで、ヒントはねえかって色々サイトで調べてみると、「串間市文化財」っちゅうサイトで、秋月種実(あきづき・たねざね)の正室・青松院の墓標っちゅう文字を見っけたんだよな。

おそらく生前のなめえは、「松」がついてたんじゃねえだろうか、推理してみっと、妹の名前は「お靏(おつる)」っていうし、鶴と松ってなんかしっくりするよな。姉が松で、妹は鶴。花札にも松と鶴が一緒になった札もあっし(w)

しかも生まれは国東半島の国東郷の海岸べた辺りだったろうから、松林も近くにあったんじゃねえだろうか。そんでここでは、長女の名前を「お松」ってことにしようと思うんだ。違ってたら申し訳ねえけんど、まあゆるしちくりぃ。なんか問題あったら言ってくれ。

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さっそく、行ってみっかぁ!

4月28日金曜日、朝早く出発するはずが、前夜飲み会があって、二次会も参加し、ちと飲みすぎたんで、福岡市を出発したのは、昼過ぎになっちまった。

行程は300km以上ある。ナビにまかせて、福岡市都市高速、九州自動車道宮崎自動車道と乗り継いで、都城ICで高速を降りたんだけんど、ものすげぇ疲れたぞ。

目的地の西林院につく頃にゃあ日が暮れて真っ暗になっちまったらいやだなぁと思いながら、車を南へ南へと走らせたんだよな。

時計の針が16:00を指したが、まだまだ南国宮崎は明るかった。しかも超暑い。山越えの途中で鹿児島県志布志市を通過とナビが表示した。それにしてもせめえ道が続く、なんとか16:30頃、目的地付近に到着した。さあってと、西林院はどこだぁ?ナビはJR日向北方駅付近の道もねえや山ん中が目的地だと示してる。

どうやって行けばええんだ。とりあえず、線路沿いにあったセブンイレブンに車を止めて、セブンカフェで一息ついた。

スマホで位置を確認すっと、セブンイレブンの裏山が西林院らしい。そこで、車をセブンイレブンの駐車場に置かせてもらって、歩いて西林院を目指すことにした。

倒木で道が塞がれていたけんど、それをかいくぐって、ほせえ(細い)道を用水路伝いに歩いて行った。しばらくすっと、左に石段が見えてきた。どうやらその先は神社があるようで、手前に鳥居が?

ここじゃねえなぁ。さらに歩いていくと、道の左側に竹藪ん中に続いてる細道があった。この坂道を行くとありそうな雰囲気だな!まだ陽は落ちてねえし、薄ぐれえ(暗い)けんどその竹藪の坂道を登っていった。

結構な坂道だった。しかも落ち葉なんかで滑りやすい。竹藪を抜けると、ちょっとした広場になっていた。その広場の横にお寺があった。どうやらこれが西林院だな。

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臨済宗相国寺派・西林院、2018/4/28撮影

おお、やっと着いたぜ。っちゅうか、逆方向から来れば車でもこれるんじゃねーか。南側からは車が通れるほど広い道が続いてた。

おらあ北側の竹藪ん中通ってきたんで、ちと損した気分だ。寺の左は墓地になっていて、一番左端に3つの石塔を見つけた。どうもこれが秋月氏の墓らしいな。

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墓の説明があるんで、のせてみっぞ。この説明だと向かって左側が「お松」の墓ってことになるな。残念ながら石塔には何の文字も刻まれちゃあなかった。

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だれかが、石塔におかし(じゃがりこ)を載せてやがる。国東で生まれた「お松」がそこに眠ってた。反対側に夫の秋月種実、間に五男の秋月種守。お参りにきてくれるひとも多いのだろう。三つの石塔は、石の囲いで覆われていある。その後ろにも墓標がならんでいる。重臣たちの墓だろうか。

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ちゅうわけで、GWスペシャル田原家の墓参り・お松の巻はこれでおわりだ。

次回GWスペシャル、田原親宏の巻をたのしみにまっててくれ。

次もぜってい見てくれよな。

第11夜 宗麟の望みはお鶴の婿養子を!

国東田原氏に大友家の血を入れてぇと宗麟の願げえ

おっす!おらあ金兵衛。前夜は、大友宗麟が田原親宏に旧領地(国東・安岐郷)をけえす(返す)つうことだったけんど、この話には交換条件っつうもんがあったんだな。

田原親宏は、娘が2人いたんだけんど、息子はいなかったんだな。しかも長女は筑前秋月の雄、秋月種実の正室として嫁していたんで、二女のお鶴に婿養子をもらって田原家を嗣がせていたんだな。でもよう、大友宗麟は田原家の血がへえってねえ(入ってない)婿養子はダメだ!自分の二男大友親家をお鶴の婿養子にしろ!これが旧領地をけえす交換条件っつうわけだったんだよな。f:id:kinbee:20180417222303j:plain

画像:信長の野望より引用、お鶴イメージ画

お鶴のおやっさん田原親宏も、これには頭をなやませちまったんだよな。すでに、お鶴には婿養子をもらっているし、親方の宗麟からは二男を婿養子にしろって条件つけられちまったら、こりゃあ、困るぞ。

お鶴と婿養子の田原親貫のわけえ(若い)夫婦は、仲よく暮らしているんだぞ。

田原親宏は頭をかかえこんだにちげえねえ。それと言うのも田原家の家臣の中にも、大友家との縁組に賛意を唱える者が出て、家中は賛否の議論に沸くありさまであった。この課題は、へたをすると重大な事態を招きかねねえ。

男の子に恵まれなかった田原親宏は、豊前馬ヶ嶽城主長野種信の子親貫を婿養子にしているのである。しかも、親貫は日向遠征にも従軍しており、宗麟も知っているはずだから、親貫を離縁してでも自分の子を迎えよという無体な要求である。宗麟としては、反大友色の濃い豊前との縁組を、田原家がしたことを好ましく思っていなかったので、この機会に改善したかったのだ。

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画像:信長の野望より引用

婿養子の田原親貫(たわら・ちかつら)は、まだ十代の若者だったという。

ところが、事態は急変する!

田原親宏のおやっさんが、この課題を背負ったまま、この年(天正七年)9月16日に急死しちまったんだ。背中にできた悪性腫瘍が命取りとなったらしい。

田原親宏の急死を喜んだのは、豊前妙見岳城に引きこもっている田原紹忍(たわら・じょうにん)であった。目の上のタンコブの田原親宏が除かれたのである。大友宗麟もあるいは、その知らせを聞いて内心喜んだかもしれない。

大友家を脅かす一つのガンが取れちまった。あとは若造の田原親貫(たわら・ちかつら)を料理すればよいだけだからだ。

ところが田原親宏(たわら・ちかひろ)の死で田原家の家督を継いだ親貫は、継承3か月も経たない12月に突如大友本家への反旗をひるがえし、府内攻撃の挙に出ちまったんだな。

この3か月足らずの間に、田原親貫に挙兵の決意をさせたのは何んだったんだろうか。

まず考えられることは、大友宗麟妙見岳城の田原紹忍と連絡をとって、田原本家の家臣の中の、大友に心を寄せる者、あるいは田原紹忍(たわら・じょうにん)に恩顧のある者を手なずけ、内部から結束を切り崩し、田原親貫を追放する画策が忍び寄っていることを知ったのではなかろうか!

次回若き武将、田原親貫の反乱!次もぜってい見てくれよな!

 

 

 

第十夜 大友家臣の離反・反乱

 

田原親宏、国東へけえる(帰る)

おっす!おらあ金兵衛。第九夜では、田原本家の田原親宏、勘解由入道こと田北紹鉄が田原分家の田原紹忍を糾弾したとこで終わったんだったな。今夜は、その続きだけんど、最後までぜってい読んでくれよな。

 

12月中旬のことである。その日の会議に田原親宏(たわら・ちかひろ)の顔が見えなかった。田原親宏は、大友氏庶流の中でも重きをなしている名門である。ことに、北九州への備えとしても重要な国東の城主だ。

どうしたのだろう、と他の重臣がささやきあっているところへ、注進が入った。

「田原親宏殿が、郎党ことごとく引き連れて、国東へ引き揚げられた模様にござります」

「なに、親宏が国東へ帰ったと…」

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画像:信長の野望より転用

真っ先に顔色を変えたのは、大友宗麟の嫡男大友義統(おおとも・よしむね)であった。これは重大な出来事である。家臣が主君の許しを得ずに、黙って自分の城へ引き揚げるのは、明らかに反逆の意思表示である。

このことは、直ちに大友宗麟へ報告された。

田原親宏謀反か!円満解決へ重臣動く

田原親宏(たわら・ちかひろ)が無断で国東に帰城し、謀反の気配があることを知らされた大友宗麟は、「うむ…」とうなずいて、しばらく考えていたが「ことと次第によっては、糾明の兵を動かさねばなるまいが、田原親宏に何か言いたいことがあるかもしれん。しばらく待ってみよう」

親宏が突如このような行動に出た根が、どこにあるか宗麟の脳裏をよぎるものがあった。それは数年前、宗麟の正妻の兄であり、寵臣でもある田原紹忍(たばる・じょうにん)の望みを入れて、田原親宏の所領の一部を取り上げて田原紹忍に与えたことである。

さらに今回の日向敗戦の責任を負うべき田原分家の田原紹忍を不問に付して側近に復している。これらの不満が、一度に噴出したのだ。

今や実力のある国東田原家と、ことを構える大友家の現状ではない。言い分があれば聞き入れて、穏便に収めたい、と考えたのだ。

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画像:信長の野望より転用

家臣たちも宗麟と同じ思いであった。もしも親宏が反大友の勢力である北九州の秋月、竜造寺らと組んで府内を襲えば、防ぐことは不可能ではないか。敗戦の痛手と不満を抱えている将兵が府内の防衛に積極的に当たるとは思えない。

そこで「この事態の打開に何らかの手を打たねばなるまい。事を荒だててはならぬ」と、重臣たちがなだめ役をかって出た。それは加判衆の志賀親守(しが・ちかもり)、一萬田鑑実(いちまんだ・あきざね)、朽網鑑康(くたみ・あきやす)ことと朽網宗歴、木付(きつき・しげひで)の四人である。

 

 

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志賀親守(志賀道輝)・・・豊後岡城城主

一萬田鑑実(法名:宗慶)・・・小牟礼城城主・鳥屋山城城主

 

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朽網鑑康(法名:宗暦)・・・山野城(別名:逆竹城)城主

木付鎮秀(木付宗虎)・・・木付城城主

【加判衆】

大友氏領国支配の中枢的役割を持つ家臣団の中の、上層部に位置する役職である。ことに志賀、一万田、朽網三氏は南部衆の有力者である。南部衆はこの度の日向遠征には最も批判的で、出兵には肥後迂回陣で結局戦闘には参加しないで帰還している。

 

国東木付城(後の杵築城)城主である木付鎮秀は、耳川の合戦では本隊に加わって戦い、敗戦に際しては、殿をつとめて、残兵を収集して帰国し、連署で田原親宏に書状を送ったのである。

 

暮れも迫った12月26日である。加判衆としては、田原親宏がこの度の行動を反逆と認めたくない、穏便な次のような内容であった。

木付鎮秀 ⇒ 田原親宏

「この度の突然のご帰国について、だれにもあいさつすることなく、理由も告げなかったことは、訳がおありであろうが、我々は驚きました。遺憾なことでもありました。ついては、しばらくご休息になり、来年春早々にはぜひご出府あるよう、お待ちします。なお筑前方面の動きが容易ならぬと見受けられますので、ご油断なきよう頼みます」

田原親宏のおやっさんの気持ちを十分に察した上で、核心にはわざと触れず、円満な解決を望んだ加判衆の気持ちを、親宏もくみ取ったようで、これに対する返事ともとれる書状が、年が明けた早々に大友義統あてに届いたってんだ。

田原親宏 ⇒ 大友宗麟

「不穏な筑前方面の軍勢が、南下の動きがあると聞きましたので、これに備えるべく、豊前方面の守りに我らが兵を動員しました。事態が急と心得ましたので、言上する暇もなく帰国致した次第です。つきましては、わが領内の総力を挙げるについて、先に分家田原紹忍殿に与えられたわが旧領国東、安岐二郷が、他領であることは不便にて、種々差し換支えがございます。この際、旧のごとく回復いただきたく願い上げる次第です」

っとまあこういう内容の書状だったんだな。つまり、田原紹忍が宗麟にねだって奪い取った国東・安岐郷をけえして(返して)くれってなことだな。筑前の不穏の種である旧領回復の要求を、はっきりと宗麟に示しちまったんだなぁ。

田原親宏の今回の不審な行動の本心は、筑前の秋月種実と組んで府内を攻め、豊後に新しい風を吹かせたかったようだな。

秋月種実(あきづき・たねざね)の正室には田原親宏の長女(お鶴の姉ちゃん)が嫁しているし、田原家・秋月家両家は姻戚関係にあるだからな。

しかし加判衆の連名で、友情のこもった、円満な解決を望む書状を届けられては、これを踏みつけにして府内に刃を向けるわけにはいかず、田原親宏のおやっさんは、要求だけを大友宗麟に示したんだよな。

田原親宏の書状を読んで、嫡男大友義統が激怒!

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 田原親宏の、旧領回復の要求をはっきりと示した書状を見た若い大友義統には、事態の深さも田原親宏の心のひだも読めなかったんだな。

 大友義統「旧領を返せとは、上を侮るも甚だしい。国東の領地を動かしたのは、父のお考えがあってなされたこと。今さら何を…」

 と手紙を放り出して憤まんをぶちまけるだけで、加判衆の意見も聞こうとしなかったんだな。

 事態が好転に向かっているのに、これでは再び荒立てることになる、と考えた加判衆は、直接大友宗麟に訴えたんだな。

 加判衆「田原親宏(たわら・ちかひろ)は、これまでも豊前方面の平定に再三出陣して功績を現しております。この度の行動は不穏に見えましたが、書信によると、筑前に備えて豊前に兵力を派遣し、忠誠を見せたのでありました。彼の旧領回復の望みをかなえて、国内安泰を図るべきではないかと愚考致します。田原紹忍(たわら・じょうにん)に与えていた領地を、この際取り上げて旧に復するのは、日向の戦いの責任を明らかにする点でも、家中は納得すると思います」

と、言葉を尽くして進言したっちゅうわけでい。

大友宗麟も、田原親宏問題に心を痛めていたところであり、むしろ加判衆らの進言を待っていたようで、意見に従って直ちに嫡男義統を呼んで、田原紹忍に与えていた国東、安岐二郷を田原親宏に戻すよう処置することを命じたちゅうんだ。

かくて天正七年正月十一日付けの、加判衆連名の奉書で、田原親宏に旧領返還の伝達が、急使をもってなされたちゅうわけでえ。

これで田原紹忍(たわら・じょうにん)は、国東・安岐郷の領地を失い、宇佐郡妙見岳城に蟄居しちまったんだ。田原紹忍に向けられていた日向敗戦の責任追及もこれで一段落し、田原親宏事件も穏便に終息しちまった。

田原親宏にとっては望みどおりに解決して、不満のタネはなくなったわけだけんど、一つ重い課題を抱えこまされた。

次回、田原親宏にもたらされた重い課題とは!次もぜってい見てくれよな!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第九夜 大友家臣団の軍法会議

大友家敗戦の原因は!キリシタン?田北鎮周?

おっす!おらあ金兵衛。耳川の戦いじゃあ、薩摩の島津にやられちまった大友軍だったけんど、敗戦の原因について、大友家臣が激論すっぞ!最後までぜってい読んでくれよな。

大友宗麟の日向遠征の失敗は、なんだったのか!当然失敗の責任を問う声は、田原紹忍(たわら・じょうにん)に集中したんだよな。このことを詳しく書いてるのが、大分合同新聞の渡辺克己って人でよう。ちと内容を引用すっから大目にみてくれよな。

ずるがしけえ(ズル賢い)田原紹忍は、その非難をかわすために、国主大友宗麟をまどわしたのは、キリシタンである!宣教師を国外追放にし、教会は打ち壊すべきではないか!と画策してたんだよな。つまり、田原紹忍は、この策動に反キリシタンである大友家の重臣たちを引き入れるつもりだったんだけんど、これがかえって家臣団の反発にあい、裏目にでちまったんだ。

田原紹忍に反論したのは、国東の名門田原本家の主である田原親宏(たわら・ちかひろ)だった。お鶴の父ちゃんだな。

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イメージ画、信長の野望より

田原親宏「紹忍殿は、こたびの負け戦の責任を、キリシタンバテレンにことごとく負わせて追放を企てておると聞いたが、真でござるか。それは、ちと身勝手すぎると思われてならぬが・・・」

と皮肉を込めて釘をさした。何しろ田原紹忍は、田原親宏にとって不快きわまる人物だったのだ。そもそも田原紹忍は、田原家分家の武蔵田原家に奈多氏から養子に入った身である。その紹忍が、実の妹奈多夫人を宗麟の正室に据え、宗麟の寵臣となって権威を振るい、田原本家の所領であった国東郷と安岐郷を数年前に、宗麟にせびり奪い取っているからだ。

田原紹忍「いや、あの戦は、われとて責任は重々感じておるのだが、そもそも小丸川渡河戦において、田北鎮周(たきた・しげかね)殿の無謀なる・・・。」

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・・・と、戦死した田北鎮周の名を出して言い訳をしかけた。それを横合いから奪い取って口を挟んだのは、鑑解由入道こと田北紹鉄(たきた・しょうてつ)であった。

田北紹鉄「お待ちあれ!討ち死にした者のとらざるところと、われわれは心得ておりますぞ。まず総大将たる者が、腹かき切ってでも負け戦の責めを一身に担うてこそ、武士の器量というものではござらぬか!われらはそれを期待し、そのときこそ、われらも責任を分かち合う覚悟でござった。」

バテレンたちには、負け戦の責任はござらぬ。ましてや討ち死にした者を持ち出すのは卑怯・・・」

鋭い語気であった。

日向小丸川の渡河戦で、軍議の席を蹴り、渡河一番乗りで戦死した田北鎮周(たきた・しげかね)は、田北紹鉄の実弟であり、紹鉄に子が無かったので、鎮周を養嗣子にして田北の家督を継がせていたのである。

覚悟はしていたものの、望みを託していた肉親の戦死の悲しみは深い。その田北紹鉄の面前で、ぬけぬけと敗戦の責任を戦死した者に転嫁しようとする田原紹忍の、きたない根性は腹にすえかねたのだった。

田北紹鉄は、元来(がんらい)一徹者で通っており、歯に衣着せぬ舌鋒に、田原紹忍は黙り込んでしまった。田原紹忍が企んでいた、教会堂の打ち壊しやバテレンたちの追放は、これで立ち消えとなっちまった。

だけんど、腹ぐれえ田原紹忍の心底を突き刺した、田原親宏と田北紹鉄の言葉は不吉な予感を宿した暗い影となって並みいる大友家武将たちの胸をよぎったんだよな。

その予感は、間もなく衝撃的な事件となって、大友家の上下を驚かせた。

日向遠征の敗北によって、大友の旗下に屈して従軍していた北九州領国は動揺し、この機に大友から離反しかねねえ不安な情報は、矢継ぎ早にへえっていた(入っていた)んだ。

その対策や国内の戦後処理などを協議するために、臼杵城に重臣を招集して、大友宗麟の子、大友義統を中心に、連日会議を開いていた。

次回、田原のおやっさん、会議をすっぽかして国東へ帰る!の巻。次もぜってい見てくれよな

 

 

 

第八夜 西の関ケ原・・・耳川の戦い

 

西の関ケ原・・・耳川の合戦!

 

おっす!おらぁ金兵衛。今夜は、大友氏衰退の契機となった耳川の合戦について書いてくぞ、最後まで、ぜってい見てくれよな。

 

妹が大友宗麟正室になったことで、大友軍の中で、相当な影響力を持つようになった奈多鑑基の子、田原親賢(たわら・ちかかた)こと田原紹忍(たわら・じょうにん)は、親方大友宗麟田原本家の国東、安岐の二郷をおねだりし二郷とも手に入れることに成功した。

天正5年(1577)島津氏に敗北した日向(今の宮崎県)の大名伊藤義祐(いとう・よしすけ)は、友好関係にあった大友宗麟に身を寄せてきた。

大友家の家督を相続してからほとんど敗北らしい敗北を喫したことがなかった大友宗麟は、調子にのって、宿敵・薩摩国(今の鹿児島県)の島津義久(しまず・よしひさ)と決着をつけるため5万の大軍を率いて日向遠征を決定しちまったんだ。そんときの総大将を田原紹忍に任しちまうんだよなぁ。

 

天正6年(1578)9月4日、大友宗麟臼杵を出発。日向に切支丹国(ムジカ)を築こうと、延岡の牟志賀(今の宮崎県延岡市無鹿町)に本陣を置いた。

 

ムジカっちゅうのは、ミュージックのことだとおもうけんど、以前、大友宗麟がミサに訪れた教会で、オルガン音楽「ムジカ」(MUSICA)に触れ、感動しちまってよう、理想の切支丹国ムジカを自分はつくりてえってずうっと思ってたらしいんだ。

 

敵方の島津氏は、島津四兄弟っちゅう強えやつらがいてよう、大友軍は大苦戦しちまうんだよなぁ。(島津義久・義弘・歳久・家久)

11月はじめ大友氏の先鋒が、名貫川に布陣していた島津家久(しまづ・いえひさ)勢を破ると、大友勢はさらに進んで島津氏の家臣、山田有信(あまだ・ありのぶ)の守る高城(今の宮崎県児湯郡木城町)を包囲し、兵糧攻めを開始しちまった。

それから、豊後・島津両軍は日向高城川原(今の小丸川)で激突!!島津家久勢の救援を図って佐土原に進撃した島津義久の主力軍2万が背後から総攻撃をしかけてきちまった。

この攻撃で大友勢は壊滅状態となり敗退。大友方は数日来の大雨で増水した耳川(日向市)を渡りきれずに多数の将兵が水死しちまったんだ。

また、敗走する途中にも島津軍の追撃に合い、小丸川から耳川河原までの七里(約28Km)の児湯平原一帯は両軍の戦死者総数が二万にも達したと伝えられるなど、両軍の屍(しかばね)が累々としていたっちゅうことだ。

この11月9日から12日までの四日間を「耳川の戦い(みみがわのたたけえ)」っちゅうんだ。「高城川の戦い」ともいわれてる。

 

11月12日の夜、大友宗麟は本陣を置いてた牟志賀を引き払い豊後へ陸路を敗走、11月14日、懸土持氏が島津氏に被官し、縣は島津領になっちまう。

耳川の戦いの主な武将は

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でいしょうり(大勝利)した島津氏、しつこく大友氏の本拠地豊後へ侵攻し、一時は現在の大分市まで迫り、九州探題を任じられてた大友宗麟の威勢は急速に落ち込んじまった。代わって島津氏はやがて九州の覇権を握ることになるんだけんど、大友宗麟は恥をしのんで豊臣秀吉に助け求めに大阪城へ行った、これが秀吉の九州出兵の原因になるんだよなぁ。

次回、大敗した大友軍で離反が相次いで発生、詳しく書くから次もぜってい見てくれよな!

 

第七夜 ドン・フランシスコ登場!!

ドン・フランシスコに田原本カリカリすっぞ!の巻

おっす!おらぁ金兵衛。今夜も安岐のこと書いてくんだけんどよう、そんめえに(前に)ドン・フランシスコこと大友宗麟をちゃちゃちゃっと説明せんといけねぇな。

豊後の国(今の大分県)を本拠地とする大友氏は、鎌倉じでぇ(時代)から続く守護大名である。欧州で作られた地図では、九州全体を“Bungo(ぶんご)”と呼んで、“Japan(ジャパン)”とは別の国だと錯覚して作成されている。戦国時代末期、豊臣秀吉に先駆け、ポルトガル船や南蛮船を通じて外国貿易を推し進めて、経済立国を目指す一方で、豊後の他に“豊前”、“筑前”、“筑後”、“肥前”、“肥後”を加えた六か国を切り従え、鎌倉以来綿々と続く大友家にその最盛期をもたらしたのが、大友家第21代当主「大友宗麟(おおとも・そうりん)」であった。

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大友宗麟すげえ!今の宮崎・鹿児島を除いた九州全域を手中に収めていたとはね。戦国時代の九州のドン(首領)って言っても過言ではないな。私の首領(ドン)と呼ばせてくだ~さい~。

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・・・って誰が石野真子やねん(笑)

ちなみに“宗麟”っていうのは法号で、もともと大友義鎮(おおとも・よししげ)っつう名前だったんだよな。そんでもって、フランシスコ・ザビエルら宣教師に大友家領内でのキリスト教の布教を許可し、宣教師のフランシスコ・カブラルから洗礼を受け、洗礼名を“ドン・フランシスコ(普蘭師司怙)”と名乗り、正式にキリスト教徒となっちまったんだよなぁ。

しかもよう、文書に自分の署名として「府蘭」を用いたりもしている。押しも押されぬキリシタン大名なわけよぅ。

宗麟の父ちゃんは、大友家第20代当主大友義鑑(おおとも・よしあき)で、母ちゃんは、大友家と争いごとの多かった周防国(今の山口県)の大名大内家第30代当主大内義興(おおうち・よしおき)の娘なんだよなぁ。

宗麟の正室は、一色義清(いっしき・よしきよ)の娘だったんだけんど、おっちんじまってから、大友氏の家臣奈多鑑基(なだ・あきもと)の娘(奈多夫人)を後妻としてもらってんだよな。

奈多氏ってのは、豊後国安岐郷にあった奈多八幡宮の大宮司家でよう、この大宮司奈多鑑基(なだ・あきもと)っちゅうやつは、宗麟から寺社奉行に任じられてんだよな。

しかし、寺社奉行としての権限を私的に利用し、息子の奈多鎮真(なだ・しげもと)とともに相当な悪(ワル)っちゅうことにされてるんだよなぁ。

もう一人の息子(二男)の奈多親基っちゅうやつも相当の悪(ワル)で、国東田原本家の分家にあたる武蔵田原氏の養子に入って、田原親賢(たわら・ちかかた)を名乗り、それから宗麟の時代になると、大友家の重臣となって宗麟を支えることになるっちゅうわけだ。

田原親賢(たわら・ちかかた)の妹が、奈多夫人で、宗麟の継室(後妻)となるんだけんど、この兄妹は後世での評判が、芳しくねぇわけよ。

こいつらのおかげで本家である国東田原本家は、苦汁をなめる日が続くことになるんだよなぁ。

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画像は、2004年1月2日、NHKで放送された「大友宗麟~心の王国を求めて~」からの引用です。松平健が宗麟役?どんなキャスティングなんだっちゅうの!

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兄の奈多城主田原親賢(村井國夫)と大友宗麟松平健)の前で舞う

奈多夫人(財前直美)とその侍女(宮本真希

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宗麟っちゅうのは、南蛮貿易で富を上げ、国崩しちゅう当時としてもどえりゃあ大砲(大筒)をいち早く取り入れたでいみょう(大名)でよう、地元大分じゃあ英雄あつけぇ(扱い)なんだよな。

なのに歴史の記録じゃあ、女癖が悪りぃとか、酒癖もひでぇとか、けちょんけちょんに書かれてあんだよな。でもよう、この記録っちゅうのが、大友家と対立していた筑前の黒田家の者が書いたってんだか、いいひょうべん(評判)に書くわけねぇよなぁ。歴史の記述っちゃそういうもんだよなぁ。

分家の武蔵田原氏の田原親賢(たわら・ちかかた)つうやつは、出家後のなめぇ(名前)を

田原紹忍(たわら・じょうにん)

ちゅうんだけんど、妹の奈多夫人が宗麟の継室ってこともあって、宗麟に取り入って、田原本家の領土をねだって奪いとったりしたんだよなぁ。

国東の田原本家としちゃあ、自分たちで戦さで戦功をあげ、もらった土地をなんの戦功もねえ分家に持っていかれちまったら、そりゃあ頭にくっぞ!

もともと、国東の田原家は。大友家の庶家の中でも実力があって、天正七年のフランシスコ・カリアン書簡に

田原氏は「豊後の大身中最も有力」「豊後の最も勢力のある大身」だってことが書かれてもあんだ。

※大身とは、身分が高く俸禄(ほうろく)も多い人。

そんため、れきでぇの(歴代の)大友家当主をはじめ、大友義鑑・宗麟(義鎮)も田原親宏(たばる・ちかひろ)の実力には相当警戒してて、田原氏を大友家の年寄から解任して大友家の中枢から排除したり、豊後国外へ追放したりしてんだよなあ。

国東田原氏が天文十二年(1543)に出雲、その後に周防の大内義隆を頼っているのは、宗麟の父大友義鑑(おおとも・よしあき)に豊後を追放されたためなんだよなあ。

でもよ、そん後に大友家ん中で家督争いが起きちまって、宗麟の親父さんの大友義鑑(おおとも・よしあき)は死んじまったんだ。これが有名な二階崩れの変(にかいくずれのへん)っていうやつよぅ。

そんあと、宗麟が家督を継いで、田原氏は2年後に豊後への帰参を許され、安岐郷や国東郷政所職を与えられんだよなぁ。

それから、国東田原氏は大友家の主な合戦に参加して戦功も大きかったもんだから、ますます大友家からは警戒されることになっていくっちゅうわけだよ。主な合戦っつんは、永禄十一年(1568)、高橋鑑種攻めや、永禄十三年(1570)、多々良浜の戦い(毛利軍との決戦)だけんど、宗麟は、田原親宏の所領を奪って、田原分家の庶流の田原親賢に与えちまったんだ。そりゃあ田原氏もカリカリすっぞ!

多分、宗麟の嫁さんの奈多夫人や、その兄田原親賢が、宗麟に強請った(ねだった)んにちげえねえ。

次回、第八夜は、分家の田原親賢(たわら・ちかかた)こと田原紹忍(たわら・じょうにん)、田原本家の田原親宏(たわら・ちかひろ)、その親方の大友宗麟(おおとも・そうりん)の三人についてのからみ話を書いていこうとおもってんだけんど、次もぜってい見てくれよな。

 

 

第六夜 大友宗家との対立

宗家大友氏に刃向う田原氏!

 

おっす!おらぁ金兵衛。今夜は田原家と大友宗家とのきまじい(気まずい)話になっけんどよぉ、最後までぜってぇ読んでくれよな。

 

南北朝の争乱こそ終息したんだけんど、日本各地でいろんな乱が勃発しちまってんだ。たとえば、

応永の乱(1399年)

永享の乱(1438年)

嘉吉の乱(1441年)

享徳の乱(1454年)

そんで、有名な応仁の乱(1467年)が京都を中心に勃発しちまったんだ。

世の中は下剋上が横行する戦国じでえ(時代)に突入!

そんなじでえ(時代)に、豊後の大友家では家督をめぐる内訌(ないてい)いわゆるうちわもめってやつが続いてて、明応年間(1492~1501)には、大友家第16代当主大友政親(おおとも・まさちか)とその子、大友義右(おおとも・よしすけ)が対立し、抗争してたんだ。

この父子の対立の裏には、大友一族の僧侶・大聖院宗心(だいしょういん・そうしん)の陰謀と、宗心を支援し大友氏の凋落を目論む周防の大内氏の存在があったと言われてるんだよな。

宗心(そうしん)には大友家の当主になるちゅう強ええ野心があったんだ。

宗心自身は大友家第13代当主大友親綱(おおとも・ちかつな)の六男で、第16代当主大友政親(おおとも・まさちか)とは従兄弟の関係にあたるんだよな。

でもよう、宗心は、父親である大友親綱の菩提寺大聖寺豊後大野市犬飼町)に入り、大聖院宗心(だいしょういん・そうしん)という僧侶になりながらも大友宗家当主になることを望んで、さまざまな謀略尽くすんだよな。 

一方、国東の田原家第9代当主田原親宗(たばる・ちかむね)は、大友宗家のうちわもめに際して、最初は、父親の大友政親に心を寄せていたようだったんだけんど大内氏と宗心からの働きかけによって政親に反するようになったんだな。

だからよう田原親宗は、宗家大友氏の成敗を受けることになっちまって、国東に引き籠もっちめうんだ。

明応三年(1494)になって、田原親宗は手兵を率いて府内大友館の大友家第17代当主大友義右(おおとも・よしすけ)を襲撃するだけんども撃退されちまうんだ。その後、第16代当主大友政親のご機嫌伺いに行くんだけんど、田原親宗を警戒していた大友政親はこれを拒否するばかりか、配下の木付親久と富来繁教に追討命令をだし、田原親宗が国東に戻る途中の御野崎っちゅうとこで田原軍を全滅させちめうんだ。

その後も大友宗家の家督争いは、16代大友政親と17代大友義右の父子対立続くんだけんど、とうとうてぇへんな事件が起こっちまうんだ。

それは、明応五年(1496)に、父の大友政親が、子の大友義右を毒殺しちまうんだ。

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そんでもって、自分は筑前に逃亡しようとすんだけんど、赤間関大内氏に捕えられ自害させられちめうんだな。

長らく続いた大友宗家の家督争いは、あっけねえ終結をみせることになっちまったんだけんど、子の義右の毒殺も、父の政親の謀殺も、実はいずれも宗心(そうしん)が拘わっていたらしいんだよな。

その後、第18代大友家の当主を継いだんは、自害した政親の弟の大友親治(おおとも・ちかはる)なんだよな。大友氏の略系図を書いたんだ見ながら読んでくれ!

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宗心も、なっかなか当主には、なれねぇなぁ…。まっ一応坊主だからな。

それから大友家第18代当主になった大友親治は、大聖院宗心の暗躍を抑え、次の家督を、自分の嫡男大友義長にしようと、都で一度将軍職を追われた前将軍足利義稙(あしかが・よしたね)に使者を派遣したりすんだよなぁ。

だけんど、足利義稙を擁する大内義興(おおうち・よしおき)は、大友義長が大友家のの家督を継ぐことに猛然と反対し、大聖院宗心を大友の家督後継者に推したんだよな。

さらに、大内義興足利義稙を奉じて上洛し、将軍に返り咲かせることに成功するんだよな。

いよいよ大聖院宗心が大友家の家督を手中に収めるかって思われたんだけんど、将軍足利義稙は、大友親治・義長父子に大内義興との和睦を勧めたんだ。

だけんど、大友父子はこれに応じなかったんで、の豊前攻略が開始されるっちゅうわけだな。

あとよぅ大聖院宗心は、大内氏以外にも、色々他国の武将に通じ、大友宗家と対立を続けんだよな。一方、田原親宗の後、家督を継いだ田原家第10代田原親述(たわら・ちかのぶ)は、正室の実家佐伯氏、義理のきょうでえ(兄弟)にあたる朽網親満(くたみ・ちかみつ)らと結んで、大聖院宗心を支持したんで大友氏と対立することになんだな。

永正十三年(1516)、宗心を盟主として朽網親満の乱を起こるんだけんど、実はこれも田原親述が企てたんだってよ。そんな訳で国東田原氏は、常に大友氏をおびやかす存在であり続けたってわけよ。

でもよ、結局大聖院宗心も年取っちまって老境に入り、家督への執念も消えちまってよう、その消息も途絶えちまったんだな。

一方、国東の田原親述は、永正十五年(1518)の大友義長の「条々事書」に、「田原親述兄弟三人之事、子々孫々及も許容有間敷候」と記載されてんだよな。つまり、大友義長にとって、田原親述は生かしてはおけないと思うほど恨み・怒り・憎しみが深かったってことだな。不俱載天の存在だな。

そんなわけで、大友宗家と国東田原家は対立は根がふけぇんだ。次回はいよいよ大友親安(義鑑)・大友義鎮(宗麟)父子と田原家との対立について書いてみんからよ、次回もぜってえ見てくれよな!