金兵衛のブログ

大分のこと色々綴っていきます

第三夜 親子で学ぶ安岐の浦史

ついに姫の名前が判明したぞ!その名は「お鶴」

おっす!おらあ金兵衛、第三夜は、姫の正体が判明したっちゅう話だ。どうだみんなぁ、祟りをおこす姫の名前知りてぇだろ。今から説明すっからよぅ、ワクワクして待っててくれよな。

おらあ、あれから色々調べてみたんだがよぅ、まったく姫の正体がわからなくって、途方にくれてたんだよな。

こりゃあ、大分県のでっけぇ図書館にでも、いっちょう行ってみっか!っつうことで、JR九州ソニックで博多から大分駅まで行ってみたんだよう。

大分の県立図書館っつうのが、大分駅西大分駅の真ん中ぐれぇのとこにあることがわかったんで、バスで図書館へ向かったわけよ。福岡市の総合図書館と比べってみっと、ちと古ぃぃ感じがすっけど、中へへぇってみたってわけよ。にけぇの奥に郷土コーナーがあって、色々物色してみたらすげえ本みっけたぞ!

タイトルがすげえ「親子で学ぶ安岐の浦史」だってよ!

そのものずばりだな(笑)

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早速読んでみたんだよ、本の構成はでえてぇ「安岐町史」と同じなんだがよ、「七、名所旧跡」の(三)史跡に安岐城址、姫ガ墓、千人塚、ネギテ観音と四つも記事が書かれてあんだ。

ページでいうと157ページだな、「姫ガ墓」の記事を引用すっかあらよぅ、心して読んでくれ。内容は「安岐町史」とほぼ同じようなものだが、親子で学ぶっつうぐれぇだから、結構わかり易く詳しく書かれちまってるし、姫さまの名前もあっさり書かれてんで、おらぁびっくりしちまったぞ。

 塩屋の西、荒巻の荒れはてたみかん畑の中に、狭い台地があり、そこに一つの大きな墓と、側に二つの小さな墓があります。

 近くの草はきれいに刈りとられ、お供物や花も飾られていて、墓石にはいつも黄色や白い粉がぬられているので、何かいわれのあることが感じられます。

 人々は「姫ガ墓」と呼んでいます。

 安岐城が落城した時、お姫さまが腰元を連れて逃げおち、このあたりの人家にかくれていたところを敵兵に見つけられて殺されてしまったということです。

 近所の人々は、やさしくて美しかったお姫さまのあまりにもむざんな最期をあわれみ悲しんで、ここに手厚く葬ったと伝えられております。そして、そのお姫さまが大へんきれいで心のやさしかった人だったので、少しでもそのお姫さまのようにすがたも心もなりたいものだと、お墓にお白粉をぬっておまいりする人が多いのだということです。

 お姫さまの名は、お鶴、元亀大正年間(1570年頃)の田原家第十二代安岐城主田原親宏(たわら・ちかひろ)の二女として生まれ、主に国東町田深にあった伊予野の館で生活していましたが、時にはこの安岐城にも来ていたものと思われます。

 姉が一人ありましたが、筑前甘木の城主秋月種実にお嫁に行きました。父親宏は男の子がなかったので、世嗣に養子をもらわねばなりませんでしたが、田原家の親方に当る大友宗麟(おおとも・そうりん)は自分の二男をお鶴の養子にさせたいと思っておりました。ところが親宏はそれを嫌って豊前の馬ヶ岳城主長野種信(ながの・たねのぶ)の子、親貫(ちかつら)を養子にしてしまったのです。

なんだそうだったんかぁ、でもよぅ、なんでお鶴のおとっつぁんは、親方の二男坊を養子にむけえなかったんだぁ?大友宗麟の二男ってよっぽどブ男だったんかなぁ・・・。まあ続きを読もうや

 そのような事もあって、親貫とお鶴は仲よく暮らしましたが、大友家と田原家とは仲が悪くなってしまって、父親宏は宗麟から、領土をとりあげられたり、いろいろないやがらせをされました。

 父親宏はがまんをしながら、西国東郡田深の鞍懸城(くらかけじょう)で死んだのです。そこで、養子の親貫が第十三代の田原家を継いだのですが、宗麟は、こんどは更に親貫から国東の飯塚城を取りあげ、そのあとに宗麟の二男親家(ちかいえ)を配属しました。

 永年住んだ飯塚城から去って行かねばならなくなった田原親貫は、その時遂に決意するところがあったので、ひとまず安岐城に移り、城を固めました。それから、お鶴を安岐城に残したまま家来と共に鞍懸城に行き、大友氏にやむなく報復する戦いの準備を進めました。

 このことを知った宗麟は大へん怒って、自ら大軍を率いて攻めてきました。安岐城の兵は決死の覚悟でしたから、城から出て行ったりしてよく戦いましたが、多勢に無勢で天正八年(1570)九月、ついに落城してしまいました。

 お鶴はこの時自刃(じじん)しようとしたのですが、家来や腰元にいさめられ、夫親貫のいる鞍懸城まで落ちのびることになりました。そこで、人目に立たぬように腰元二人を連れ、夜闇にまぎれてひそかに城を抜け出しました。

 秋の夜風を一人肌に冷たく感じながら、肩をすぼめて荒木川堤を上って行った主従三人は荒巻の民家にたどり着き、納屋の隅で休んでいました。

 そこを巡視の敵兵に発見され、容姿や態度から直ぐにお鶴主従とわかり、情容赦もなく惨殺されてしまったということです。

 一方、親貫も鞍懸城で奮戦したのですが、負け戦さとなって逃れているところを、豊前善光寺で討死にしてしまいました。

 時に天正八年十月のことで、安岐城にまつわる戦国の世の哀れないい伝えです。

っとまあ、かなりくわしく書かれているんで、でぇてぇのことはわかったかなぁ。この本に姫ガ墓の写真あったんでそれをのっけてみっけどよぅ、モノクロで結構画質が悪かったんだけんど我慢して見てくれよな。ひぁぁぁ、すっかりススキに囲まれちまってるなぁ。

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次回、金兵衛の歴史発見第四夜は?

田原家が宗家大友氏となぜ戦(いくさ)に至ってしまったのか、その理由について詳しく調べて書いてみっからよぅ、ぜってぇ見てくれよな!