第五夜 安岐城の築城
お鶴の住んでた安岐城とは!
おっす!おらあ金兵衛。第四夜はお鶴のご先祖さま田原貞広が合戦で首取られちまうって衝撃的な内容だったけんど、今夜は、田原家第1代当主田原泰宏からお鶴までの田原氏の系図からまず説明してみようっか。
国東半島史、安岐町史によると田原氏系図は次ぎのようになっかなあ。おらがExcelでちゃちゃちゃっと書いてみたけんどわかっかなぁ
田原家第12代当主田原親宏(たわら・ちかひろ)が、お鶴のおやっさんてことになるんだけんど、男の子がいなかったから娘のお鶴に婿養子をもらうんだよな。お鶴の姉ちゃんは、先に秋月城主に嫁にいかせちまってるんで、妹のお鶴の婿養子の親貫ってのが田原家第13代当主になるっちゅうわけだ。
これが宗麟には気にくわなかったんだろうなぁ、大友宗家と田原家の対立はこのことも大きな一因なんだよなぁ。
あと田原家第6代当主田原親貞の弟、田原親昌っちゅうやつが、国東と安岐の間にある武蔵町っちゅうところに分家して、武蔵田原家っちゅうのができるんだ。
この分家の婿養子になる奴が、噂ではとんでもねぇ奴なんだよな。
話は、第四夜頃に戻っけんど、田原家第3代当主田原直貞は、南北朝の内乱に積極的に参加して多くの恩賞地をもらっているんだよな。
貞治二年(1363)、田原直貞は、室町幕府第2代将軍足利義詮(あしかが・よしあきら)から、それまで日田氏が持っていた安岐郷の地頭職をもらたんだよな。
このように、田原地区(大田村)から国東郷、安岐郷へと田原氏の勢力は急に伸びてくんだよ。
そんなこんなで、国東や安岐郷の土豪たち(萱島、津崎、永松、片山、如法寺など)も田原氏に従うようになるっちゅうことだな。
それから安岐郷に城が築かれたんだが、いつごろのことかっていうと、南北朝時代から室町時代に切り変わったばかりの頃、田原家第7代当主田原親幸によるもんじゃねぇかって言われてるだけんど、地頭としての館はもっと早くに、今の城址近くにできていたんじゃねえかっていう説もある。
安岐城について
安岐城は、田原氏が築いたお城で、国東の飯塚城(いいづかじょう)の支所みてえな出城(でじろ)だったそうだな。1580年頃、田原氏が亡んだ後は次々と城主が代わって、豊臣氏の滅亡と共に廃城になっちまうんだがよ、田原氏が安岐郷にへえった(入った)当初から政治をするための屋敷だけがあったと言われる。
田原家第5代当主田原氏能(たわら・うじよし)の時代には安岐の館(屋敷)ができてたのは間違ぇねえらしいな。
もともと安岐郷ってのは、永ぇ間(ながいあいだ)宇佐宮の神領として治められていたところだもんで、武士がへえってきて治めるようになんちまったんだから、安岐の領民も勝手がちがったんじゃねぇかなぁ。
田原氏も社会情勢の不安定な戦国じでぇ(時代)のことだからよう、地元権力者との調和を図るのにも相当苦労したんじゃねえかって言われてる。
「安岐町史」によると田原家第7代当主田原親幸の時に本丸だけが築かれたって書かれてる。本城の飯塚城に田原家第5代当主田原氏能(たばる・うじよし)が居て、安岐郷には、氏能のじっちゃんの第3代当主田原直貞が、隠居のような形で住むようになっていたんじゃねぇのかって言われてる。
応永二年(1395)に、田原氏能の嫡子田原親貞が、上洛せねばならなくなった時、留守番を依頼した手紙に「安岐の大方殿・・・(云々)・・・」って記載がある。
だから当時、安岐の京泊の館には田原親貞の母ちゃんが居たっちゅうことになるみたいなんだよな。
それから10年後の応永十二年(1405)九月に、宗家の大友親著は木付親直に対して、「安岐郷を親貞の子田原鶴松丸(親幸)に返せ・・・」ちゅう手紙を出してる文書が残ってるんで、田原親貞が上洛した後、安岐郷を木付氏に預けていたようだな。
そんで住居のような館から、戦国攻防の砦としての城を築いたんは、この領土返還の後じゃねぇかっちゅうわけだな。
そうすっと、安岐城は、1407年頃の築城となるから、田原家第7代当主田原親幸の全盛時代に当るわけでぇ。
安岐の港の上の天然の要害の地を選んで、築城っちゅうことに推定される。
余談だけんどよ、田原親幸は、こんとき安岐町馬場に大儀寺を建立したと言われてんだよな。
次回、金兵衛の歴史発見は、いよいよ大友宗家との対立について書いていくことになるんだけんどよ、次もぜってい見てくれよな
第四夜 国東の田原氏のはじまり
それは大田村から始まった!
おっす!おらあ金兵衛。今夜もふるさと安岐町の歴史について探求してみっど。今夜は国東田原家が宗家大友氏となぜ戦(いくさ)に至ってしまったのか、その理由について書いてくから、ワクワクして読んでくれよ。
お鶴が殺されたこのじでぇ(時代)の宗家大友氏ってのは、有名な大友宗麟(おおとも・そうりん)のことだけんどよぅ、田原氏が宗家大友氏と戦に至ったそもそもの原因は、それよりずーっとずーっとむけし(昔)の頃から見ていかねぇとわからねぇんだ。
国東の田原氏ってのはよぅ、志賀・詫摩氏と並ぶ大友三大支族(いわゆる大友三家)の一つでよぅ、豊後大友氏初代能直(よしなお)公の庶子(しょし、本妻以外の女性から生まれた子)泰広(やすひろ)様を始祖とする、いわゆる大友庶家(しょけ、宗家ないし本家より別れた一族)になるんだっての。
それがある人物の影響で、宗家筋の大友家ときしみが生じちまうことになるんだがよぅ、その前に田原氏の始祖である大友泰広(やすひろ)様について、話をはじめようか。
大友泰広(やすひろ)様は、京都で生まれ、豊後国国東地方に地頭職を得て、宇佐宮領国東郡田原郷(田原別府とも荘とも呼ばれる)に定住し、田原(たわら)氏を称することになるんでぇ。いつぐれぇのことかって言うと、色々説はあるんだけんど、親子で学ぶ安岐の浦史によると、建保元年(1213)に豊後国国東地方(大田村)の地頭となってからってあるし、その土着を十三世紀末にっていう説もある。
田原氏は、その後、沓掛田原・武蔵田原氏の分家や吉弘・妙法寺・生石・田口氏などの庶流も生じてるんでぇ。それ以後、第2代当主田原基直、第3代当主田原直貞と綿々と続いていくんでぇ。
三代目の直貞とその子貞広父子は、はじめのころ後醍醐天皇につくしたりもしてたんだけんど、建武二年(1331)に、足利尊氏が新政に叛旗を翻すと、尊氏に味方して活躍したんだってよ。
そういうわけで田原氏は室町幕府や大友氏からの信任もあつく、九州・中国各地でその支配地をかくでぃ(拡大)していったんだよな。
南北朝時代になってからよぅ、田原氏は大友本家に従って北朝方に味方して、多くの合戦に参加し、その功績のため、観応二年(1351)、田原家第4代当主田原貞広は当時の将軍足利尊氏から国東郷地頭職を与えられ、国東郷飯塚城(現在の国東町安国寺、国東小学校があった辺り)に移住し、国東田原氏発展の基礎を築いたんだよな。
文和二年(1353)、九州探題一色氏が中心となった武家方と征西宮を擁する菊池方との決戦が筑前針摺原(ちくぜんはりすりばる、現在の筑紫野市辺り)で行われ、この戦に田原貞広も宗家大友氏時らとともに出陣し、先鋒となった大友勢の一翼をになったんだってよ。
だけんど、乱戦のなかで征西府軍の安富泰重(やすとみ・やすしげ)っちゅう強ぇやつに討ち取られてしまうんだ。
【筑前針摺原合戦実況中継】
さあ文和二年(1353)正月、ここ筑紫野市にある筑前針摺原(はりすりばる)スタジアムでは、北朝側の博多の一色直氏率いる一色探題軍総勢二万五千。相手南朝側は本陣に、懐良親王、五条親子を中心とする公家たちが凛々しく鎧兜に身を埋めており、菊池武光、城武顕、赤星武貫、大城藤次らを中心に続々と集結し、いつしか総勢一万に達しております。数では圧倒的に北朝側有利、さあ、合戦2日目の朝がやってまいりました。
一色範氏「先陣は、大友氏時(おおとも・うじとき)に任せた。頼んだぞ、氏時」
大友氏時「お任せください。必ずや菊池武光の首を取り、征西将軍宮を虜にして見せます」
と胸を張って答える大友氏時。彼は先年、兄大友氏泰から家督を譲られたばかりであります。
しかし、大友家は未だ隠居したはずの兄大友氏泰に握られている状況であるとの情報が入っております。
大友氏時は、ここでなんとか、自らの能力を示し、大友宗家での威信を高めたいと密かに胸の中に期しているものと思われます。
一方の征西府軍(せいせいふぐん)は、菊池一族の赤星武貫(あかほし・たけつら)を先鋒に任じたようであります。
南朝側は、この戦で必勝の作戦を練っているとの事前情報が入っております。
おや?菊池武光が、一族の将兵を前に訓示を開始しております。それでは集音マイクでその声を拾ってみましょう。
菊池武光「よいか皆共、この針摺原は、広い草原地帯だ。“鳥雲の陣”の展開には最も理想的な地形である。日頃の辛い訓練の成果を見せるには持って来いだ。いいな、勝負は菊池勢だけで付けるつもりで掛かれ。一気に一色親子の本陣を衝くのじゃっ」
「おおっ!」
とても勇ましい訓示であります。
征西府軍の配置を見てみますと、菊池勢が中心となり、懐良親王たちの本陣は遥か後方に置かれているようです。さらに、外様豪族たち軍勢も控えに回されている陣形をとっております。南朝側としては、総数は北朝側に劣っているものの、懐良親王を危険にさらすわけにはいかないということでしょう。
それにしても菊池武光の話していた“鳥雲の陣”とはどのような作戦なのでしょうか。
とても気になります。
南朝側は今日の合戦前に食事をしてるようです。今朝のメニューは、
干し飯(いい)
勝ち栗
打ち鮑(あわび)等
の料理のようです。
菊池の将兵はこれらで合戦前の食事を済ませております。その目は、ぎらぎらして合戦二日目の日の出を待っております。
そして今、朝の陽光が草原を照らし始めました。
おおっと、それと同時に、菊池武光の号令が下ったようです。
「いまだ、者共かかれいっ
「うおおおっ」
怒号とともに安富泰重(やすとみ・やすしげ)を先陣とする赤星隊が大友勢に襲い掛かりました。
「ござんなれい」
大友勢も、この瞬間を手ぐすね引いて待っていたようです。その先鋒は国東武士田原貞広(たわら・さだひろ)のようです。
田原貞広は、大友家中でも屈指の勇者であると聞いております。
田原貞広「なんだあれはっ」
田原貞広は、迫りくる菊池勢の隊形に目を見張っております。
それもそのはず、菊池勢の隊形が刻一刻と形を変えております。
これでは、田原貞広側としては、相手の手の内がまったく見えないのではないでしょうか。
鶴翼なのか?、それとも魚鱗なのか?それとも・・・。
あっとここでファーストコンタクト!!
両軍がぶつかりあいました。
この形はなんでありましょうか!奇跡です。奇跡です。
菊池勢の兵士一人一人が、ぴたりと心を合わせて行軍することから生まれる奇跡です。
ここまで兵士を鍛えるのには、並々ならぬ努力と歳月が必要だったことでしょう。
菊池武光は、探題側が言っていたような腰抜けではありません。鬼です。鬼将です。
どうやら北朝側の先鋒田原貞広はこの戦法を理解したようです。
だが、それに気づいた時、田原貞広の人生は既に終末を迎えていました。
大友勢先陣は粉砕され、たちまちのうち瓦解してしまいました。
おおっと、ここで先陣の赤星隊の安富泰重(やすとみ・やすしげ)が雄たけびを上げたようです。
安富泰重「我こそは肥前の武士・安富泰重っ、大友一族の勇将・田原貞広を討ち取ったりっ」
安富泰重が振り上げた槍の穂先に、刺し抜かれた首級が翻っております。
大友氏時も懸命に兵に叱咤しておりますが、大友勢は壊乱したままで陣形は立て直せそうもありません。そればかりか、大友勢の敗残兵たちが、第二陣の島津、第三陣の竜造寺勢になだれ込み、彼らをも混乱させているようです。
「今だ、行けっ」
菊池勢の第二陣を率いる八郎武豊、第三陣を率いる城武顕が次々に突入して行くので、たちまちのうちに一色の大軍は統制を失った烏合の衆と化しております。
後方の小高い丘に置かれた本陣で、一色範氏は唖然とした表情です。
「なんだこれはっ」
「なんだこれはっ、どうしたと言うのだ。戦が始まってまだ四半刻(三十分)にもならぬのに」
その傍らで、一色直氏も蒼白な頬を震わせているようです。
「な、なんて強さだっ」
ここで前衛から傷だらけの郎党が一色直氏のもとへ駆け込んで来たようです。
「お屋形さまっ、ここも危険です。早くお逃げください」
ここに至って、一色親子は事態の深刻さを思い知ったようであります。
「いかん、退却だ。数里後退して態勢を立て直すしかない」
北へと敗走していく一色の大軍を望見し、菊池武光は合図の采配を振るっております。
「総攻撃っ」
南朝側は本陣を守る馬廻衆を始め、待機していた阿蘇惟澄統率の外様部隊や懐良親王も一斉に動き出した模様です。
菊池武光自ら白馬に跨り、馬廻衆の先頭に立って追撃しております。
その激しさは、同陣の少弐冬資をも震え上がらせるほどに凄まじものがあります。
菊池武光の容赦の無い追撃に、逃げ遅れた一色方の豪族は、殆ど降参するか壊滅させられてしまったようです。
後退して体制を立て直すつもりだった一色範氏は、あまりの惨敗に開いた口が塞がらないようです。
大友氏時も再起不能となり、龍造寺や深堀も兵力の半数を失って征西府に屈服しております。
肝心要(かなめ)の一色勢も、菊池勢の追撃に大打撃を受け、その恐ろしさに完全に戦意を喪失しております。
「これが、これが、あの大軍の成れの果てなのか・・・」
猛追撃を逃れて肥前の小城(おぎ)に落ち着いた一色範氏と直氏の親子は、互いの蒼白な顔を眺めては吐息に暮れております。
それから後、父田原貞広が敗死したため、祖父田原直貞から所領を譲られた孫の田原氏能(たばる・うじよし)は、孤立無縁となったんだがよぅ、上洛して幕府に有力大将の九州下向を請うたんだってよ。
幕府は18歳の渋川義行を九州探題(きゅうしゅうたんだい)に就任させたんだがよぅ、南朝方の征西府(せいせいふ)の頑強なてえこう(抵抗)に遭って、九州に一歩もへぇいる(入る)ことができねぇまま探題職を更迭されちまったんだ。
以後、九州探題は空席のままで、田原氏能がでぇり(代理)をつとめながら征西府とてぇじ(対峙)を続けることになるんでぇ。
九州探題とは、室町幕府の軍事的出先機関である。当初は鎮西管領(ちんぜいかんれい)とも称された。
ウィキペディアより引用
征西府(せいせいふ)とは、南北朝時代、征西将軍懐良親王が九州を転戦した時に、そのつど各地に設けた在所。
大辞林より引用
次回、第五夜も国東の田原氏のつづきをやっからよぅ、ワクワクしながら待っててくれよな、次もぜってぇ見てくれよな!
第三夜 親子で学ぶ安岐の浦史
ついに姫の名前が判明したぞ!その名は「お鶴」
おっす!おらあ金兵衛、第三夜は、姫の正体が判明したっちゅう話だ。どうだみんなぁ、祟りをおこす姫の名前知りてぇだろ。今から説明すっからよぅ、ワクワクして待っててくれよな。
おらあ、あれから色々調べてみたんだがよぅ、まったく姫の正体がわからなくって、途方にくれてたんだよな。
こりゃあ、大分県のでっけぇ図書館にでも、いっちょう行ってみっか!っつうことで、JR九州のソニックで博多から大分駅まで行ってみたんだよう。
大分の県立図書館っつうのが、大分駅と西大分駅の真ん中ぐれぇのとこにあることがわかったんで、バスで図書館へ向かったわけよ。福岡市の総合図書館と比べってみっと、ちと古ぃぃ感じがすっけど、中へへぇってみたってわけよ。にけぇの奥に郷土コーナーがあって、色々物色してみたらすげえ本みっけたぞ!
タイトルがすげえ「親子で学ぶ安岐の浦史」だってよ!
そのものずばりだな(笑)
早速読んでみたんだよ、本の構成はでえてぇ「安岐町史」と同じなんだがよ、「七、名所旧跡」の(三)史跡に安岐城址、姫ガ墓、千人塚、ネギテ観音と四つも記事が書かれてあんだ。
ページでいうと157ページだな、「姫ガ墓」の記事を引用すっかあらよぅ、心して読んでくれ。内容は「安岐町史」とほぼ同じようなものだが、親子で学ぶっつうぐれぇだから、結構わかり易く詳しく書かれちまってるし、姫さまの名前もあっさり書かれてんで、おらぁびっくりしちまったぞ。
塩屋の西、荒巻の荒れはてたみかん畑の中に、狭い台地があり、そこに一つの大きな墓と、側に二つの小さな墓があります。
近くの草はきれいに刈りとられ、お供物や花も飾られていて、墓石にはいつも黄色や白い粉がぬられているので、何かいわれのあることが感じられます。
人々は「姫ガ墓」と呼んでいます。
安岐城が落城した時、お姫さまが腰元を連れて逃げおち、このあたりの人家にかくれていたところを敵兵に見つけられて殺されてしまったということです。
近所の人々は、やさしくて美しかったお姫さまのあまりにもむざんな最期をあわれみ悲しんで、ここに手厚く葬ったと伝えられております。そして、そのお姫さまが大へんきれいで心のやさしかった人だったので、少しでもそのお姫さまのようにすがたも心もなりたいものだと、お墓にお白粉をぬっておまいりする人が多いのだということです。
お姫さまの名は、お鶴、元亀大正年間(1570年頃)の田原家第十二代安岐城主田原親宏(たわら・ちかひろ)の二女として生まれ、主に国東町田深にあった伊予野の館で生活していましたが、時にはこの安岐城にも来ていたものと思われます。
姉が一人ありましたが、筑前甘木の城主秋月種実にお嫁に行きました。父親宏は男の子がなかったので、世嗣に養子をもらわねばなりませんでしたが、田原家の親方に当る大友宗麟(おおとも・そうりん)は自分の二男をお鶴の養子にさせたいと思っておりました。ところが親宏はそれを嫌って豊前の馬ヶ岳城主長野種信(ながの・たねのぶ)の子、親貫(ちかつら)を養子にしてしまったのです。
なんだそうだったんかぁ、でもよぅ、なんでお鶴のおとっつぁんは、親方の二男坊を養子にむけえなかったんだぁ?大友宗麟の二男ってよっぽどブ男だったんかなぁ・・・。まあ続きを読もうや
そのような事もあって、親貫とお鶴は仲よく暮らしましたが、大友家と田原家とは仲が悪くなってしまって、父親宏は宗麟から、領土をとりあげられたり、いろいろないやがらせをされました。
父親宏はがまんをしながら、西国東郡田深の鞍懸城(くらかけじょう)で死んだのです。そこで、養子の親貫が第十三代の田原家を継いだのですが、宗麟は、こんどは更に親貫から国東の飯塚城を取りあげ、そのあとに宗麟の二男親家(ちかいえ)を配属しました。
永年住んだ飯塚城から去って行かねばならなくなった田原親貫は、その時遂に決意するところがあったので、ひとまず安岐城に移り、城を固めました。それから、お鶴を安岐城に残したまま家来と共に鞍懸城に行き、大友氏にやむなく報復する戦いの準備を進めました。
このことを知った宗麟は大へん怒って、自ら大軍を率いて攻めてきました。安岐城の兵は決死の覚悟でしたから、城から出て行ったりしてよく戦いましたが、多勢に無勢で天正八年(1570)九月、ついに落城してしまいました。
お鶴はこの時自刃(じじん)しようとしたのですが、家来や腰元にいさめられ、夫親貫のいる鞍懸城まで落ちのびることになりました。そこで、人目に立たぬように腰元二人を連れ、夜闇にまぎれてひそかに城を抜け出しました。
秋の夜風を一人肌に冷たく感じながら、肩をすぼめて荒木川堤を上って行った主従三人は荒巻の民家にたどり着き、納屋の隅で休んでいました。
そこを巡視の敵兵に発見され、容姿や態度から直ぐにお鶴主従とわかり、情容赦もなく惨殺されてしまったということです。
一方、親貫も鞍懸城で奮戦したのですが、負け戦さとなって逃れているところを、豊前善光寺で討死にしてしまいました。
時に天正八年十月のことで、安岐城にまつわる戦国の世の哀れないい伝えです。
っとまあ、かなりくわしく書かれているんで、でぇてぇのことはわかったかなぁ。この本に姫ガ墓の写真あったんでそれをのっけてみっけどよぅ、モノクロで結構画質が悪かったんだけんど我慢して見てくれよな。ひぁぁぁ、すっかりススキに囲まれちまってるなぁ。
次回、金兵衛の歴史発見第四夜は?
田原家が宗家大友氏となぜ戦(いくさ)に至ってしまったのか、その理由について詳しく調べて書いてみっからよぅ、ぜってぇ見てくれよな!
第二夜 姫が墓の伝説とは・・・
伝説は本当だった!姫が墓の伝説とは・・・
おっす!おらあ金兵衛、今夜もふるさと安岐町の話をすっけんどよう、最後までぜってぇ読んでくれよな。
第二夜は、第一夜のつづきの話だ。おらん家の近所にでっけぇ図書館があってよう、そこのにけぇに(2階に)郷土史のコーナーがあるんだけんどよぅ、九州各地の市区町村史が保管されてんだ。
大分県のところをみてみると、あっぞあっぞ、全部あっぞ。国東町史やら国見町史やら国東半島の市区町村のものが全部あっぞ。
そんな中、わが安岐町史もあったんだ。
さっそく、閲覧コーナーに持っていって読んでみたんだな。なんつってもよ、自分のふるさとの歴史くれぇ知らねぇことには、なんにもはじまんねーだろ。
安岐町の古墳時代から記載されていてよう、ページをどんどんめくってくと、「第五章 民話」ってとこの「第二節 安岐の民話」っつうのがいくつかのってたんだよな。
そこで、おらぁ見ちまったっていうか、発見しちまったぞ!あの幼いころに聞いた話が活字になってのってたんだよな。びっくりこいちまったぞ。ページでいうと957ページからだかんな。
そこで今からその記事を引用してみっからよぅ。おらが聞いた話と同じだかどうかみんなで、てしかめて(確かめて)くれぇ。内容に問題があるっつぅやつは、こっそりおらに教えてくれ、これもふるさと安岐町のことを全国の人に知ってもらうために書いてるんでよぅ、ぜってい大目にみてくれよな。
姫が墓の伝説 安岐城陥落の時、城主の娘が、ここまで落ちのびて、ある民家に隠れていると、追ってきた武士が探し出して打首にした。あまりにもあわれであるので、土地の人が葬って、みたまをなぐさめた。それと伝えられる墓が現存する。
この墓は安岐町大字塩屋の荒巻にある。
古くからここにあったのであるが、現在の墓は昭和三十九年からちょうど100年前の元治元年(1864)に西本の庄屋本多八十八郎が、役所に「この墓の附近を耕作しているものが、往々祟(たたり)を受けるから新しく石碑を切って供養してあげたい」と届け出て、その許可を得、大儀寺の雲巣和尚に姫の戒名とその由来とを依頼した。それが次の墓碑である。墓碑の表には「華岳妙鮮大禅定尼」とあり、その裏面には、次のごとくある。
西本平原古来有称姫之墓、年月巳久故緒不詳、伝干口碑、古城落城日、熊谷氏女於此地死、爾后耕此地者、往々受祟、今歳元治元年甲子秋九月邑長本多八十八郎、訴官新建石碑、就余求追贈、同記其来由
現大儀禅刹第五世雲巣謹誌
これによると100年前すでに、この碑の由緒がはっきりしていない。ただ口傳えに、「古城の落城の際安岐城主熊谷氏の女がここで死んだ」とだけある。しかしその死に様があたりまえでなかったことは、その怨みが後世の人にまで祟っているという傳承となっている。そこに悲壮な最後がしのばれて、不運に泣く姫の姿が目に浮かぶのである。この傳説が人々から忘れられないわけもここにある。
さてこの伝説が事実であるとした時に、ここに問題となるのは、安岐城落城の際の女が、城主熊谷氏の女であったかどうかである。城主熊谷直陳(くまがい・なおもり)は慶長五年(1600)、関ケ原の戦に出陣して、叔父の熊谷外記が留守をしていたのである。そのとき中津城主黒田如水が大友義統(おおとも・よしむね)を石垣原で破り、そのまま引返して安岐城に向かった。九月十六日小城の村はづれにある陣山に到着して戦略を練り、十七日包囲して開城を勧告した。城内では賛否両論があったが終に、十八日に開城した。この実情から城を枕にして戦ったり落ちのびたりすることは考えられない。その上熊谷直陳は慶長元年、朝鮮征伐の凱旋後、近江の本城塩津二万石に、安岐城一万五千石を加俸されてたのである。治政僅かに五年、しかも平素は塩津の本城にいたから、妻子もまた安岐城にいたとは考えられない。これらの点から熊谷氏の女とは思われない。
この姫が安岐城主に関係があるとするならば、それから二十年前の安岐城主田原親貫(たわら・ちかつら)の女か、あるいは親貫一統の女ではなかろうか。親貫は天正八年(1580)宗家大友氏に叛いて、鞍懸城に破れ、安岐城に籠り、二月には、大友方の木付鎮秀(きつきしげひで)と伊予原で戦い、鎮秀父子は塩屋の田居で戦死している。七月には親貫の残党が、実際寺にこもって焼打にあい、堂塔伽藍ことごとく焼失してしまった。その間あるいは安岐城の要塞に、あるいは海浜の防備に城の内外で激戦がおこなわれた。最後には再び鞍懸城にこもって、また敗れ、善光寺で往生している。この一年間、安岐城と鞍懸城との間を転戦、また転戦、幾度戦があったかわからない。したがって、城内の妻子も西に東に追随したことであったろう。その間随分人に知れない悲話もあったろう。その一つが姫が墓の伝説となったと考えられるのである。
なんか最後はようわからんけんど、姫さまが死んだ辺りの農民が祟りにあうって書いてあんし、その祟りの内容もようわからんけんど、悲しい話があったんだなぁって思うとおらぁワクワクしてくっど。
第一夜に書いた話にほぼ近い内容が、安岐町史に書かれてあったろが。
姫さまの名前はなんっちゅう名前だったのか?もっと詳しく知りてぇぞ。みんなぁぁおらに力を分けてくれぇぇ!!
次回、姫さんの正体が判明したぞ。次もぜってぇ読んでくれよな。
第一夜 お姫さまの祟り(たたり)
伝承は本当なのか?お姫さまの祟りとは?
おっす!おらあ金兵衛。大分県の県北にある国東半島のちいせえ町、安岐町(あきまち)で生まれた御年81歳のでぇべてらんだ・・・とアイデンティティのものまねにはまっていたりすっけんどよぅまあ大目にみちくりぃ。
おらがまだちいせえ(ちいさい)ころ、お隣の杵築市へ向かう国道213号線のとある場所を通るたびに、安岐町に伝わる戦国時代の伝承を何度も聞かされたことがあったんだ。おらあ、その話の内容を思い出すたび、ワクワクすっぞ!
その話ってのがよう、奇妙な話なんだよなぁ、まあ、ひまな奴は読んじみちくりぃ(読んでみてください)。なにぶんちいせえころの記憶だもんで、少々間違ってるとこがあっかもしんけどよう、ぜってぃ大目に見てくれよな!
世は戦国、今の安岐川の河口付近のある高台に安岐城というお城がありました。
あるとき、そこの殿さまが配下の者たちを連れて他国へ出兵し、城を留守にしていました。そこへ敵方の兵団がやってきて城を襲い、あえなく安岐城は落城してしまいました。
このとき、お城に残っていた姫さまは、数人のお供とともに密かに城を逃れ、杵築方面へ落ち延びることにしました。その道中、しばしの休息をとろうと、近くにあった一軒の民家(現在の塩屋地区)を訪ねました。その家の者はこころよく姫さまたちを家の中へ向かい入れました。
しばらくして、その民家に敵方の兵団がやってきました。家の者は、あわてて姫さまたちを押入れの中へ隠しました。
敵兵は、家の者に対し、安岐城の姫たちを見かけなかったか、隠し事をすると命がないぞ!と迫りました。家の者は、自分の命惜しさに姫さまたちが隠れてる押入れの方を向き、無言でそこに居ますと合図(あごで場所を示す)しました。
敵兵は押入れを開け潜んでいた姫さまとお供の者を発見し、無情にもその場で全員斬り殺してしまいました。
それから何十年も月日経ち、戦国の世も終わをつげた頃、その民家の家系には、むごの子が生まれてくるという言い伝えが残っています。これは姫さまたちの祟りなのでしょうか・・・・。
とまあ、でぇてぃこんな話なんだがよう、むごの子っつうのはよう、大分弁なんだろうか?おらが考えるんはよう、たぶん、無言症の子どものことだと思うんだよな。この話がよう、幼心に、心のどっかにひっかかっちまってよう、未だにせつなくなっちまうんだよなぁ。
それが最近よう、とあることをきっかけにまたまた思い出すことになっちまってよう、まあ、力を入れて調べてみっかぁって思っちまってんだよな。
【無言症(むごんしょう)】
緘黙(かんもく)ともいう。構音障害や失語症がないのに、口を閉ざしてしゃべれない状態。統合失調症、うつ病、心因反応の際にみられる。その他の精神障害でも生じることがあるので、基盤にある疾患を早期に発見することが必要である。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より転載
次回、金兵衛が地元安岐町の歴史をさぐる!姫さまたちの正体は判明するのか!
次もぜってぇ見てくれよな。