金兵衛のブログ

大分のこと色々綴っていきます

第二夜 姫が墓の伝説とは・・・

伝説は本当だった!姫が墓の伝説とは・・・

おっす!おらあ金兵衛、今夜もふるさと安岐町の話をすっけんどよう、最後までぜってぇ読んでくれよな。

第二夜は、第一夜のつづきの話だ。おらん家の近所にでっけぇ図書館があってよう、そこのにけぇに(2階に)郷土史のコーナーがあるんだけんどよぅ、九州各地の市区町村史が保管されてんだ。

大分県のところをみてみると、あっぞあっぞ、全部あっぞ。国東町史やら国見町史やら国東半島の市区町村のものが全部あっぞ。

そんな中、わが安岐町史もあったんだ。

さっそく、閲覧コーナーに持っていって読んでみたんだな。なんつってもよ、自分のふるさとの歴史くれぇ知らねぇことには、なんにもはじまんねーだろ。

安岐町古墳時代から記載されていてよう、ページをどんどんめくってくと、「第五章 民話」ってとこの「第二節 安岐の民話」っつうのがいくつかのってたんだよな。

そこで、おらぁ見ちまったっていうか、発見しちまったぞ!あの幼いころに聞いた話が活字になってのってたんだよな。びっくりこいちまったぞ。ページでいうと957ページからだかんな。

そこで今からその記事を引用してみっからよぅ。おらが聞いた話と同じだかどうかみんなで、てしかめて(確かめて)くれぇ。内容に問題があるっつぅやつは、こっそりおらに教えてくれ、これもふるさと安岐町のことを全国の人に知ってもらうために書いてるんでよぅ、ぜってい大目にみてくれよな。

姫が墓の伝説 安岐城陥落の時、城主の娘が、ここまで落ちのびて、ある民家に隠れていると、追ってきた武士が探し出して打首にした。あまりにもあわれであるので、土地の人が葬って、みたまをなぐさめた。それと伝えられる墓が現存する。

 この墓は安岐町大字塩屋の荒巻にある。

 古くからここにあったのであるが、現在の墓は昭和三十九年からちょうど100年前の元治元年(1864)に西本の庄屋本多八十八郎が、役所に「この墓の附近を耕作しているものが、往々祟(たたり)を受けるから新しく石碑を切って供養してあげたい」と届け出て、その許可を得、大儀寺の雲巣和尚に姫の戒名とその由来とを依頼した。それが次の墓碑である。墓碑の表には「華岳妙鮮大禅定尼」とあり、その裏面には、次のごとくある。

 西本平原古来有称姫之墓、年月巳久故緒不詳、伝干口碑、古城落城日、熊谷氏女於此地死、爾后耕此地者、往々受祟、今歳元治元年甲子秋九月邑長本多八十八郎、訴官新建石碑、就余求追贈、同記其来由

 現大儀禅刹第五世雲巣謹誌

 これによると100年前すでに、この碑の由緒がはっきりしていない。ただ口傳えに、「古城の落城の際安岐城主熊谷氏の女がここで死んだ」とだけある。しかしその死に様があたりまえでなかったことは、その怨みが後世の人にまで祟っているという傳承となっている。そこに悲壮な最後がしのばれて、不運に泣く姫の姿が目に浮かぶのである。この傳説が人々から忘れられないわけもここにある。

 さてこの伝説が事実であるとした時に、ここに問題となるのは、安岐城落城の際の女が、城主熊谷氏の女であったかどうかである。城主熊谷直陳(くまがい・なおもり)は慶長五年(1600)、関ケ原の戦に出陣して、叔父の熊谷外記が留守をしていたのである。そのとき中津城黒田如水大友義統(おおとも・よしむね)を石垣原で破り、そのまま引返して安岐城に向かった。九月十六日小城の村はづれにある陣山に到着して戦略を練り、十七日包囲して開城を勧告した。城内では賛否両論があったが終に、十八日に開城した。この実情から城を枕にして戦ったり落ちのびたりすることは考えられない。その上熊谷直陳は慶長元年、朝鮮征伐の凱旋後、近江の本城塩津二万石に、安岐城一万五千石を加俸されてたのである。治政僅かに五年、しかも平素は塩津の本城にいたから、妻子もまた安岐城にいたとは考えられない。これらの点から熊谷氏の女とは思われない。

 この姫が安岐城主に関係があるとするならば、それから二十年前の安岐城主田原親貫(たわら・ちかつら)の女か、あるいは親貫一統の女ではなかろうか。親貫は天正八年(1580)宗家大友氏に叛いて、鞍懸城に破れ、安岐城に籠り、二月には、大友方の木付鎮秀(きつきしげひで)と伊予原で戦い、鎮秀父子は塩屋の田居で戦死している。七月には親貫の残党が、実際寺にこもって焼打にあい、堂塔伽藍ことごとく焼失してしまった。その間あるいは安岐城の要塞に、あるいは海浜の防備に城の内外で激戦がおこなわれた。最後には再び鞍懸城にこもって、また敗れ、善光寺で往生している。この一年間、安岐城と鞍懸城との間を転戦、また転戦、幾度戦があったかわからない。したがって、城内の妻子も西に東に追随したことであったろう。その間随分人に知れない悲話もあったろう。その一つが姫が墓の伝説となったと考えられるのである。

なんか最後はようわからんけんど、姫さまが死んだ辺りの農民が祟りにあうって書いてあんし、その祟りの内容もようわからんけんど、悲しい話があったんだなぁって思うとおらぁワクワクしてくっど。

第一夜に書いた話にほぼ近い内容が、安岐町史に書かれてあったろが。

姫さまの名前はなんっちゅう名前だったのか?もっと詳しく知りてぇぞ。みんなぁぁおらに力を分けてくれぇぇ!!

次回、姫さんの正体が判明したぞ。次もぜってぇ読んでくれよな。

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